密談・拒絶3
「いや、少し話をしていただけだ」
道人はそう言って立ち上がった。
姫芽の前が空席となり、さっきまでの圧力が一気に霧散する。姫芽はその隙間にできた僅かな空気の緩みに意識してしっかりと息を吸った。
櫂人は、さっき姫芽と過ごしていたときとは異なり、仕立ての良いジャケットを羽織っていた。それだけで途端に大人びて見えるから不思議だ。見慣れた端正な顔の二つの瞳は、姫芽が見たこともないくらいに厳しい色を宿している。
「彼女に兄様が話すようなことがあるとは思えません。……私に用事がおありなのでしたら、直接お伺いさせていただきますが」
「素直に来るならな」
道人がふんと鼻を鳴らして、見せつけるようにゆっくりと窓際に移動する。そのまま、窓の外の夜景に目を向けた。
櫂人はそれを目で追って、はあと小さく息を吐いた。
「──分かりました」
道人は目線を戻さないまま、続ける。
「物分かりがよくて素晴らしいことだ。……ああ、お嬢さん。今日は失礼した」
「い、いえ」
「私が話したことは、無かったことにして構わない。だが、忘れないでくれ」
道人はそこで言葉を切って、すうっと細めた目を姫芽に向けた。
「櫂人といるということは、そういう決意がいる」
姫芽ははっと息を呑んだ。
視線が絡む。何かを言おうとして開いた口が、はく、と変な音を立てた。
「兄様、一体何の話を──」
櫂人が姫芽を庇うようにして手を差し出す。一瞬その手を取ることに迷いが生じた姫芽は、道人が言っていることの意味に、気付いてしまった。
櫂人といる、ということは、これからも共に過ごすということ。
きっと櫂人が姫芽に抱いている特別な感情にも気付いているのだろう。その感情が前世の主従の誓いからきているとは露程も思わない道人には、櫂人が姫芽を殊の外大切に扱っているように見えるに違いない。
どこにでもいるただの『普通の家のお嬢さん』を、替えのきかない唯一の姫のように扱う櫂人を、道人は理解できない。
「ふん、青臭い。もう帰れ。改めて連絡を入れる。必ず来い」
「はい。失礼いたします」
櫂人がこれ以上話すことはないというように一礼し、姫芽の手を引く。姫芽は慌ててどうにか頭を下げて、その手に導かれるままに足を動かした。
部屋を出て、エレベータに乗って、一階のエントランスへ。櫂人は慣れた様子でさくさくと移動していく。大きなガラス戸を抜けるまで、櫂人は一言も口を開かなかった。
都会とはいえ、大通りから離れた場所にある小さな公園には誰もいなかった。
ビルの明かりと外灯で夜の暗闇がかなり和らげられたその空間は、妙に居心地が良い。ベンチに座る気にもなれず、二人並んで錆が目立つ古いジャングルジムに寄りかかる。
姫芽の手の中には、自動販売機で櫂人が買ってくれたレモンティーのペットボトルがある。それは、冷えてしまった手には熱いほどだ。
「──……ごめん、姫芽ちゃん。巻き込んだ」
櫂人が栓を開けていない缶コーヒーを抱き込むようにして言う。溜息すら吐き出さないその姿は、まるで内側で暴れている感情を表に出さないよう必死で押さえ込んでいるかのようだ。
「園村くんが謝ることじゃないと思う……」
姫芽も俯きがちに言う。
思い出すと、無意識に指が震えた。あんなにも簡単に家族を引き合いに出して脅しをかけてくるような大人に、姫芽は出会ったことがなかった。
そして櫂人の兄を名乗りながらも本人を無視して進められた会話が、悲しいくらいに社会の縮図を示しているようでもあった。
許可なく櫂人の事情を聞いてしまったことへの疚しさと、同情とも言い切れない原因不明の寂しさが、姫芽に外面を取り繕えなくさせる。
それでも、涙は流したくなかった。
「何か辛いこと言われた? 姫芽ちゃんにそんな顔、させたくない」
姫芽が顔を上げると、櫂人が姫芽を気遣うように覗き込んでいた。きっとまだ心の整理がついていないのだろう、その目尻が僅かに震えて見える。
明かりが足りないと、姫芽は思った。
もっと、悲しさとか寂しさとか、そういったものを全て吹き飛ばすくらいの明かりが欲しい。そうしたら、櫂人のこんな顔、見なくて済むのだろうから。
しかし夜はどこまでいっても夜で、瞬きをしても景色は変わらない。
「そんな顔って。……園村くんの方が、酷い顔だよ」
ぎりぎりで取り繕っていた表情が、くしゃりと崩れる。
綻びが生まれてしまえば、壊れていくのは簡単だ。
「本当は、分かってたんだ。……俺の我儘で、姫芽ちゃんが辛い思いをするかもしれないって、分かってた」
櫂人がしゃがみ込んで、缶コーヒーの縁を額に当てる。
「本当に姫芽ちゃんのことを思うなら、守りたいと願うなら。一番近付いたらいけなかったのは……俺なんだ」
姫芽が初めて櫂人と会話をしたとき、櫂人は『従者として、お側で御身を守らせていただきたい』と言っていた。
それが本来であれば最悪手であることなど、知っていた筈なのに。
「園村くん」
名前を呼ぶも、返事がない。
空を見上げたが、中途半端に明るいせいで、星は一つも見えなかった。