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深き知の森に標を灯し

作者: 風羽洸海

異世界風土記様の競作企画「構」参加作品。

(http://still-in-noise.a.la9.jp/fudoki/kikaku/2024_01_kamae/kikaku.html)


『The Holy Evil』(https://ncode.syosetu.com/n9757ec/)のスピンオフですが、ずっと昔の話で本編人物とは関係ありません。(本編の方に収録したぶんには関連オマケエピソードを追加してあります)


 蒼い薄闇に満たされた世界に、どこまでも果てしなく続く書架が森をなす。

 静けさの中を歩けば足の裏に固さは感じるが、その床は見渡す限り蒼黒い夜の湖面のように仄かな明かりと書架の影を映しており、実在感からほど遠い。まるで、そこから下へ向けて別な階層がそびえているかのように錯覚する。

 奥行きもまた、測るすべがない。自身の立つ周辺は薄明るく――何ら灯火を手にしていなくとも――書架に並ぶ古びた本の背表紙が見て取れるのに、視線を遠くへやれば、そこにはただ、暗闇に消えてゆく書架の列があるだけだ。柱もなく、壁もない。天井も。

 空気はほどよくさらりと乾き、暑くも寒くもない。日光も射し込まず、虫や鼠といった生き物の気配もなく、まさに書の保管庫として最適の環境と言える。すなわち書のためのくらであり、人間ぼくなどに用はないというわけだ。

「……ふぅ」

 遠慮して抑えたため息さえ、すぐさまどこか彼方に吸い込まれていく。邪魔だと言わんばかりに。恨めしげに見上げた視線の先には、確かにしばらく前に通り過ぎた背表紙の並びがあった。

「あぁー! もう、やめやめ! 駄目だこれ、無理!!」

 ぼくは大声を上げ、姿も気配もない書庫の支配者(仮定)に向けて宣言した。書架に背を向け、覚えたはずの道のりを戻って出口に向かう。正しい道順を全部辿らないうちに、外の世界につながる白い光の扉が現れた。またこれだ。もう何度目か。ぼくの記憶力がどんなに良くても、この『黄金樹の書庫』では意味をなさない。

 眩しさに目を細めながら長方形の光をくぐると、一瞬の違和感の後、生温い空気が身体を包む。そっと瞼を開けると世界全体が、書庫の中との対比で妙に黄色っぽく見えた。

 思わず、大きく深く息をつく。窓際の書字台で作業していたアモス司祭が振り返り、目元の皺を深くして微笑んだ。

「おかえり、ラースロ。その様子だと今日も進展はなしか」

「ご賢察の通りです」

 ぼくは呻いて頭を振った。肩越しに背後を一瞥すると、出てきた戸口はもう閉ざされている。何も知らなければ、書架と書架の間に隠された奥まったところに、黄金の分厚い板がぴったり嵌まっているように見える。中央に大樹の意匠、周囲に蔦模様やさまざまな象徴シンボルが配された、いかにも神秘めいた彫刻作品。把手も鍵穴もないから扉だとは思われないが、決まった手順で象徴を辿りながら、司祭だけが知る《力の言葉》で名を唱えれば封印が解け、通り抜けることができるのだ。

 ここ聖都――神の恩寵を集める世界の中心――のなかでも、ぼくが今いる教理典礼省秘術審理課は、古代の知恵と秘術のうち禁忌とすべきものを審理するという、学識の砦だ。『黄金樹の書庫』はとりわけ神秘の粋を集めたもので、本来ぼくのように司祭になりたての若造が入れる場所ではない。

 それが許されている理由はただひとつ。

「君ほどの記憶力をもってしても書庫の全体を把握することができないとは、まことに古き人々の知恵は恐るべきだな」

「憶えても憶えても、勝手に構造が変わってしまうんですよ。何度確かめても変化に規則性がないし……書庫というより迷宮です。入ったきり出てこない人が後を絶たないのも当然ですよ」

 そう、ぼくは極めて記憶力がいい。それも特に、図面の類だとか、街路と店の並びとか、建物のどこに何の部屋があるとか、そういったことに限って。頭の中に精巧正確な模型が勝手に組み上がる、と言えば伝わるだろうか。普通はそんなふうにはならない、と知った時には、それで皆どうやって生きていられるのかと驚いたぐらいだ。今自分がどこに存在しているのか、位置を把握できなくても平気でいられるなんて。

 ともあれ、その才能を知ったお歴々がぼくを抜擢し、古代より受け継がれた神秘の中枢を図面に書き起こすという大任を与えられたというわけだ。

 ――今から数百年の昔、旧い暦のさらに前、ここより南に優れた王国があったという。

 神の恩寵をさずかり富み栄え、飢饉も疫病もなく、誰もが学識豊かで当たり前に《力の言葉》でもって秘術をおこない暮らす、まさに理想郷だ。けれど所詮は人間。いつしか思い上がり、主のめぐみへの感謝も忘れ、この世界を自分たちの手でよりよく造り変えようとした、と伝えられている。

 その結果、まったき円環であった世界は損なわれた。円環がひび割れ、世界は嵐の海のように泡立ち、魔のものが世に溢れ……だがその時、主がお遣わしになった聖御子が御身をもってひび割れを塞いでくださったのだ。王国は滅びたが、世界は生き延びた。

 この聖都は、王国の滅びに際し、かろうじて逃げ出した人々が築いたと伝えられている。『黄金樹の書庫』は、その時に造られたのだ。大量の書物を荷車に積んで運び出すより、世界の裏側に書庫を造って移してしまえば良い。かつてはそんなわざが可能だった。

 そうして、いにしえの知識はひとまずあの蒼い闇の砦に匿われたものの、何しろ世界を滅ぼしかけた元凶とあって、軽々に扱うことは許されない。恐れられ、ひた隠しにされるうち、往時を知る人々も地上を去って後には迷宮が残された、というわけだ。

「見取り図とか、書物を探すのに適切な手順の覚え書きだとか、そういうものも残しておいて欲しかったですね……造るだけ造って使い勝手のことは考えていない建物というのは、よくある話ですが」

 ぼくのぼやきを聞いて、アモス司祭が愉快げに笑った。

「まさに、人間のやることは古今変わらず、だな。しかしまぁ、世界が滅びかけている時に大慌てで知識を避難させたのだ、やり方が杜撰でも致し方あるまいて。あるいは何かしらコツがあったのだろうが、伝わらずに失われてしまったのやもしれん」

「多分そうなんでしょうね。昔の人が特別に方向感覚にすぐれていて迷子にならずにすんだ、というわけではないでしょうし。それがわからないと、どうにも……そうだ、アモス様も書庫に入られたことがおありでしたよね? どうでした?」

 ぼくが問いかけると、アモス司祭は灰色の顎髭を撫でながら、ふうむ、と唸った。

「迷わなかった、などと見栄を張りはせんよ。実際、目当ての書が確実にあるという先達の言葉が遺っていなければ、何を探せば良いかもわからず彷徨って行き倒れていたかもしれん。私はただ、主の助けをこいねがい祈りながら、できるだけ書架に右手をついて歩いた。帰りは左手で触れながら戻れば大丈夫だろうと思ってな」

 そこまで言って、彼は肩を竦めた。ぼくも無言で相槌を打つ。実際には、右手で辿るという古典的な方法は『黄金樹の書庫』において通用しない。それでも、何のよすがもなく歩き回るよりは、せめても安心だったのだろう。

「それで、すんなり見付けられましたか」

「事前に覚悟したよりは、楽に見付かったな。それに、必要な調べ物を終えて書を元の場所に戻した後、帰り道はすぐだった。まさに主がお見守り下さっていたのだろう」

 アモス司祭は胸に手を当てて天に感謝したが、その仕草のついでにぼくに向けて悪戯っぽい目配せをくれたものだから、信心深さも浅くなるというもの。

「……つまり、ぼくは祈りが足りないと」

「さあて、どうかね。君は特定の書を探すことが目的ではないのだから、求める導きも違うだろうよ。もっと他の者にも聞いてみれば、何か道筋が見えてくるかもしれん。よそならともかく、我々の間でなら経験者を捕まえるのに苦労すまい」

 それはその通り。ぼくはうなずき、書庫の扉を一瞥した。

 あの扉の向こうの書物は禁帯出なのはもちろん、閲覧して得た知識をみだりに公言してもならない、と定められている。何しろ世界の存続にかかわるものだから、既に世に出ている知識と照合し禁忌に触れる事柄は慎重に取り除き、そのうえでやっと論文や書物として公にする許可が下りるのだ。よって右も左も司祭だらけの聖都でさえも、あの中に入れる人間は本当にごくわずか。そしてその大半は、この秘術審理課に在籍している。

 ――と、そこまで考えてふとぼくは口走った。

「もういっそ完全に封印してしまう、ということは誰も考えなかったのでしょうか」

 危ない危ないと言いながらも後生大事に抱え込んで、自分たちだけで禁忌の知識をちびちびと掠め取っているような……いじましい、という思いが胸をよぎったのだ。

 アモス司祭はぼくの胸中に芽生えた不遜な感情に気付いたのか、敢えてのように大袈裟な呆れ声を返してくれた。

「もう面倒くさくなったのかね? 諦めの早い坊やだな!」

 挑発に乗るのは賢くないと理解しつつも、ぼくはむっとなって「そうは言ってません」と言い返し、歩きだす。やればいいんでしょうやれば、と聞こえよがしにぼやきながら、ほかの経験者の声を集めに外へ出た。


「書庫探索のコツ? いやぁ、私が教えてほしいよ。何日あそこにいたかな……ほとんど迷っていたねぇ! 後から助けに来てもらえなかったらどうなっていたか。何しろあれもこれも興味をそそることこの上ない稀書だ、当初の目的を忘れてしまっても責められないだろう? おかげであれ以来入らせてもらえないのだがね……なぁ、君、あそこの書物を一冊でも手に取って開いたら、それはもう新たな迷宮の始まりというものじゃないかね! なに? 背表紙だけで中身は見ていない? なんというもったいない! 見取り図だとかに気を取られていないで、貴重な機会に存分に書に耽溺することを強く勧めるぞ。迷いたまえ、ぜひ!」

「あそこを迷宮だと言う者は、いったい何を見ておったのだろうかね。実に見事に整理された書の並びだったぞ。間違いなく、名高きアケロスの天文総論とその関連書がひとつの棚にまとめられていたとも。あれはまさに、我が筆の運びを主が嘉したもうた証。導きのままに歩を進め、わずかな無駄もあらなんだわ。迷ったという輩は修練が足りん! すなわち、そなたもだ。手がかりが得られぬというなら我が仕事を手伝うがいい。まずインクの調合から」

「ほほう、君が書庫の見取り図を作るむぼ……ごほん、大任を担うラースロ君か、噂は聞いているとも。ところで、つまり君は今のところ好きなだけ書庫に出入りし放題なのだな? それなら少々頼みたいことが……待ちたまえなぜ逃げる何もやましいことなど」


 アクが強い。強すぎる。

 どうしてこう変人ばかりなんだろう。それはまぁ、“安全かつ正しい”内容の、普通にこの図書館の開架で閲覧できる書物で満足するような穏健な人なら、そもそも『黄金樹の書庫』に用はないのだから、書庫に入りたがる時点である種の奇人ではあるわけだが。それにしても。

「誰も彼も、ぼくが書庫に出入り自由というだけで、涎を垂らして食いつかんばかりの顔をするの、本当にやめてほしいです」

 疲れを隠さず呻いたぼくを見て、アモス司祭は愉快げに笑うばかり。ぼくはじっとりした視線を投げかけてから、「でもまぁ」と胸を反らした。

「見えてきたこともあります。それで今日は試したいことがあるので、アモス様にも手伝って頂けたらと思うんですが」

「ほう」

 アモス司祭が笑いをおさめ、真面目な顔つきになる。ぼくは手振りで彼を促し、共に『黄金樹の書庫』の扉に向かい合った。書庫の番人でもあるアモス司祭が、扉に手を触れて唱える。

「《主の前に(アヌ・イェファ)すべての城門は(・エイドゥヴァラ)開かれる(・アイダ)》」

 厳かな聖句で宣言し、四方の門番の名を唱えながら浮き彫りの意匠に触れてゆく。黄金樹の枝、とぐろをまく蛇、炎の剣。アモス司祭の指が必要なすべてを辿ると、扉全体がぼうっと光り、輝きと共に本体ごと消えた。あとにはぽかりと開いた、蒼暗い闇への入り口のみ。

 さすがにもう最初の時ほどの畏怖はないものの、扉をくぐる時はやはり少し緊張する。何もない空間なのに、明らかに境界を越える感覚がする。外の世界の光は、中にいっさい届いていない。

 後からアモス司祭も入ってきて、ぼくに並んだ。

「さて、私は何をすれば良いのかね」

 手を揉みほぐしているのは、書物運びの準備運動だろうか。ぼくはぐるりを見渡し、闇の奥に消えてゆく書架の一列に向かって五歩ばかり進んだ。

「祈りが足りない、と、アモス様だけでなく何人かに言われました。それは正しいと、ぼくも思います。明らかにこの書庫は、書を探す人物の意志に反応して構造を変えている。目的の書物をしっかりと意識して気を逸らさなかった人ほど、迷わず辿り着き速やかに出てくることができたのですから」

「さもありなん。これほど大量の書、たとえ目移りせずとも端から端まで探し歩くだけで何日もかかってしまう。探し求める書のほうが近くに出てきてくれるなら、それに越したことはない。いにしえの人々は、呼び出しの祈りのような定型句を知っていたのかも知れんな」

「ええ、おそらく。それを確かめたいので、ぼくが唱える祈りをアモス様が《力の言葉》に直して、復唱していただけませんか。共にぼくの銀環に手を添えて」

 言いながら、首にかけた細い鎖を外し、銀環をてのひらに載せる。司祭のしるし、叙階の按手礼の時に与えられるものだ。親指と人差し指でつくった輪ほどの大きさで、蔓草模様に隠して司祭自身の名を彫り込み、その者を霊力と結びつける触媒。これがなければ、秘術を行使することはおろか、霊力の銀光を目に捉えることさえできない。

 ぼくの頼みに、アモス司祭は眉を上げた。

「頼ってくれるのは嬉しいが、君が自分で唱えるべきではないかね。正確に言葉を使う自信がないのなら、前もって教えて進ぜるが?」

「ぼくは秘術に関しては、ごく平凡な成績でしかありません。聖典に頻出する言い回しから外れた文言を《力の言葉》に直して、なおかつ確かな意志を載せて唱えるのは……外でならともかく、この書庫の中では危ういと思うんです」

「ああ、ふむ。それは確かに」

 学院で秘術の練習をするのとはわけが違う。この書庫が人の意志を読み取って変化するのなら、生半可な状態であやふやな文言を唱えたら何が起こるか知れない。まさか書架に挟まれてぺちゃんこになったりは……しない、と思うけれど。

 ぼくの危惧を理解したアモス司祭は、よかろう、とうなずいて、ぼくの銀環に手を重ねた。

 深呼吸をひとつ。主よ、ぼくの試みが間違いでないのなら、やり遂げる力をお与え下さい。心で祈ってから口を開く。

「主よ、我が祈りを聞き届けたまえ」

「《イェファ・エテガウサ・マナシェハズナ》」

 アモス司祭が繰り返す。これは典礼でよく使われる定型句だ。銀環がほんのりと温かくなり、霊力の流れが緩やかにぼくとアモス司祭の手を取り囲んで、ちらちらと銀色に瞬き始める。

「我は知識のしもべ、書の森にて標を求む者なり」

 少し間を空けて、アモス司祭が唱え直すのを待つ。

「我に鷹の目を与えたまえ。空より森を見渡し、正しき道筋を見出せるように」

 《力の言葉》による復唱が終わった瞬間、霊力の流れがいきなり大きくうねった。反射的に息をつめて身体をこわばらせる。アモス司祭がぼくの銀環ごと手を握りしめ、ぼくも強く握り返す。ふたりで身を寄せ合い、大波に呑まれる小舟の心地で虚空を見上げ――

「おお……!」

 共に嘆声を漏らした。

 蒼い闇の中に並ぶ書架の森。それが今、自分たちのまわりだけでなくずっと広い範囲にわたって明るくなり、光のもとに威容をあらわしていた。閲兵式のよう、とたとえたら良いだろうか。ぼくら二人の前に書架の列が一糸乱れず整列して、それが果てしなくどこまでも続いている。

「こんなにも……」

 アモス司祭がつぶやいて銀環から手を離し、感に堪えない様子で聖印を切った。ぼくも言葉を失ったまま、右から左、上から下へと視線を巡らせる。膨大な書が眠っているとは知っていた。でも、これほどだとは想像していなかった。

 しばらく互いに無言のまま立ち尽くし、ややあってぼくは主に感謝の祈りをつぶやいてから、アモス司祭に向き直った。

「ぼくが考えた祈りの文言がおおよそ正解だった、とみなしても良いでしょうね。でも実用の役には立たない。こんな風に全容を眺め渡すことができたとて、求める書がどこにあるかまでは……あなたもおっしゃったように、歩き回って目当ての本を拾い集めるだけで何日もかかってしまう。やはり書庫の全体を図面に書き起こすなどということは諦めて、正しい書物が近くに現れてくれるように『呼び出しの祈り』――これもあなたの言ですが――そういうものを定めて、書庫に入る人にはそれを唱えるように教えておくのが現実的な方法かと」

「それだけでは不十分だろうな。祈りを秘術の形で何らかの道具に封じ、書庫にいる間は携えていられるようにしたほうが良かろう。でなければ、いかに前もって心構えを整えようとも、目当ての書とは別のものに気を取られる者には役立たん。何しろこれだけの膨大な蔵書だ、いたるところ興味を引く魅惑的な罠に満ち満ちておる。そら、そこにも」

 ぼくの提案に、アモス司祭が冗談交じりに修正案を返してくれる。さすがは書庫の番人。ぼくは彼が指さす背表紙を読まないように目を逸らし、「その手には乗りませんよ」と苦笑いした。

 アモス司祭は肩を竦め、改めてもう一度、整然とした書架の並びを眺め渡した。

「君の『鷹の目の祈り』は書庫の番人が憶えておけば良かろうな。全体の構造を把握することはかなわずとも、迷った者を見つけ出すのに役立ちそうだ。ありがとう」

「主のお導きです」

 謙虚に答えたものの、褒められるとやっぱり嬉しい。得意がっているのが表情に出るのを隠そうと、顔を伏せる。もっとも、アモス司祭は気にしていなかった。

「さて、何に付与するのが一番安全確実だろうか……銀環のように身に着けるものだと、そのまま持ち帰られる恐れもある」

 思案を口に出しながら書物の背に目を走らせ、先ほど「そこにも」と示した辺りへ近寄っていく。あれは僕に仕掛けた冗談、ではなかったらしい。

「アモス様?」

 そっと呼びかけてみたが、彼はもう考え事に夢中だ。

「やはり手に持つ明かりが適当だろう。叡智の森に分け入る時は正しき明かりを持て、と聖典にも言われていることだし……」

 ぶつぶつ言いながら手を伸ばし、書物を取る。途端に、ぼくの銀環を通じて巡っていた霊力の流れが変わった。

「アモス様!」

 慌てて制止したが、既に遅し。荘厳な閲兵式はいきなり終了解散し、世界は再び蒼暗い薄闇に沈み込んだ。反射的に背後を振り返ったら、案の定、せいぜい十歩離れただけのはずの出口がもう見えない。

 アモス司祭も自分のしたことに気付き、面食らったような顔をして瞬きしながら立ち尽くしていた。

「…………」

 ぼくは低く地を這う呻きを漏らし、無言で恨めしく見つめる。罠にかかった先達は白々しく目を逸らし、つまみ食いを見付かった子供のような仕草でそっと書物を棚に戻した。そうして、えへん、と咳払いをひとつ。

「さて、今日のところはひとまず撤収するとしよう。なに、君がいれば帰り道はすぐに見付かるだろうとも。頼りにしているぞ、ラースロ」

「おだてにも乗りません」

 やれやれ。まことに、人の心構えの移ろいやすさときたら!

 ぼくは頭を振ってから姿勢を正して目を瞑り、これまで何度も辿ってきた帰り道を頭の中に描きはじめた。ぼくにとっての書庫はこれまで、全体像は曖昧ながらも、通いつめて馴染みになった夢の中の建物のようなものだった。それを、先ほど目にした威容を骨組みとして造り直してゆく。

 無意識に手は銀環を握りしめる。温かい。

 目を開くと、視線の先に白い長方形が現れていた。

「うむ、さすがだな。できればもう少し近くだと、老体にはありがたいのだがね」

「迂闊なことを言うと足下に穴が開いて、外へ落とされますよ」

 軽口を返し、アモス司祭を促して歩きだす。

 いつもの床の感触が心持ち堅固になったような気がして、ぼくはそっと息をついた。これからは少しだけ、この書庫を安心して探索できるだろう。まるで知らないのに、よく知った場所のように。



2024.10.12

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