架空の病
「ごめん、なに?」また聞こえなかった。最近耳が遠い。
友「だから○○って***〜じゃん、そう思わない?」
私「そう?わからない、それよりさ」
私はとりあえずそう答えると決めている。ずるいかもしれないが関わらないのが賢明と知っているから。私が話に加担することも目の前でそれについて話されることも不快だから。
私はいつからか人の悪口や欠点、それについての指摘などそれら全てが雑音に掻き消されて無かったことにされる体質になった。ただ悪口が聞こえないだけなら幾分も生活する上で快適だと思うかもしれないがこれの悪いところは自分の欠点を指摘・注意してくれる善意の言葉も一切聞こえなくなってしまうということだ。
例えば、誰かが私の言った言葉や起こした行動に対して、
もっとこういう言葉を使った方がいい、こういう行動のが
私は嬉しいなど。社会に出た後自分のミスに対して指摘を
受けるが、私にはそれが聞こえない。
どうにか聞き取ろうとするがノイズが邪魔してなにも聞こえなくなる。これでは埒があかないと病院へ行った。
医師によって、
『突発性遮断難聴』であると診断された。この病気は、ストレスがかかった際にそのストレスから逃れるため体が危険信号を出し、ストレスの原因を断つ手段として聴力を低下させる病らしい。
この病はストレスを溜め込んで限界を超えたにも関わらず休むことができず脳がショートし、エラーを起こしている状態らしい。詳しいことは、症例が少ないためわかっていないが、人によって症状に差はなく中には片頭痛やめまい、過呼吸、パニック障害を併発する人もいる。
症状は同じだが遮断される話の内容は異なり、私の場合は否定的なことだが、中には肯定的なことの遮断、世間話の遮断、予定を立てる会話の遮断、人を誘う文言が遮断される人など、様々な種類がある。ストレスが限界に達したタイミングに聞いていた話の種類全般が遮断される仕組みになっているらしい。
「治療法はないんですか?」
「精神病ですからカウンセリングが主な治療になります」
医師は何ともない様子で答えた。
正直私からしたら、この治療法は絶望的だ。なぜならこの世で一番苦手なことが人に自分の話をするまたはなにかを相談すること、であるためだ。
昔から他人を信用することができなかった。親友でも心のどこかでいつか落胆されることを怯えていた。信用しすぎてしまいそうになれば、所詮他人なのだからいつか離れていくと言い聞かせ、無意識に距離をとって、近づきすぎないよう気を付けていた。
そもそも相談しなければ解決できない話なんてかなり個人で重く複雑だ。そんな話を聞きたい人などいない。強いて言えば、大事な友達だから聞くかもしれないが、友達にとって私の存在がそこまで価値があるかなんて肯定できるわけもなかった。そして大前提としてその話というのは暗く、楽しい話では決してない。自分の大切な子を私の個人的な暗い話で悩ませてしまうのも、悲しみを一時でも感じさせてしまうのも何もかもが嫌だった。
人に相談することは誰かに自分の荷物を強制的に担がせることだ。そこまで感情移入しないにしても相談を受けた時点で加担する、共犯になることに変わりはないのだ。
重すぎる、考えすぎと言われればそれまでだが、
私にとってはそれほどのものだ。その証拠に私は人が相談している状況を見ると意味がわからないと思ってしまうし、そのリスクを考え罪を犯すと言っているのか正気か?と思う。そしてほとんど私の見ている光景ではとてもじゃないがそんなことは微塵も誰も考えておらず、甘くて軽いだからこそ許せなくなる。
この考えのいいところを一つ挙げるならこれが前提なので
相談された時に相手から底知れぬ信頼を得た気持ちになれて普通より何倍も嬉しいことである。それ以外にはなにもない
そんなわけで私は絶望して家に帰り、あの病院へは2度と行かないと誓った。そして今、唯一の友達である電子機器で文を綴っている。ここには私という存在と味方しかいない。私の紡いだ文字が思い通り整列する心地いい空間。
その後、1人で自分と向き合い続けた結果、嘘のように
緩和されていき、今ではなんの不自由もなく過ごせている。
だが今でもメンタルが落ち込むと耳が聴こえなくなる。でもこれは自分から見ても他人から見てもわかるものだからありがたい。気軽に休みますと言えるようになった。
実は、この病気になる前、うつ病になった。
それが緩和し復帰して外に出るようになった矢先、
この病気になり、正直もう勘弁してくれ、せっかく
復帰したのにまたダメ人間になるのかとこの世の終わりだと思ったし、消えてしまいたいと思った。
だがこの病気は私の根っこである目に見えないものは怠けで耐えなければという信念を変えてくれた。どこかで私は
ずっと自分を責める自分と周りを憎み、楽になりたかったのかも知れない。精神的なストレスが目に見えないからと無視する自分と他人を糾弾し、休みを勝ち取りたかった。
社会では休まないことが昔から美徳だと教えられてきた。
幼少期から皆勤賞制度があり、休まなかったというだけで
表彰された。そして今となっては、前提として休まない人が良いとなっている。だがこれは休まないことで、無理を
してパフォーマンスが落ちた状態で働くことを意味する。
果たしてそれは、自分にも相手にも全ての方面で失礼では
ないか。仮にその状態で失敗したら、まあ体調悪かったしと少なからず思うし、逆に上手くいったら少し気を抜いて
やっても大丈夫かと甘えるようになる。
これは無意識の境地に起こることなので防ぎようがなく、
どんなに高みを目指して謙虚に頑張る人でも持っている
思考だ。人間は弱い。一度でも堕落した思考をできる余地
が少しでもあれば、それのせいにして責任転嫁し無意識の
本能で簡単に堕落してしまえる。それを防ぐためにも、
限界の時は休んで万全の状態で挑むことこそ、素晴らしい
ことなのだ。ということをみなさんは知っていてほしいし、誰かが休む時は私も俺もいつか休む時が来るかもしれ
ないしお互い様だと広い心で受け入れる余裕を持ってほしい。