獅子に魅入られた男
国のあちこちに散らばって伝わる民話があった。
各説話において、たいていの筋道は同じだ。
しかしながら、地域によって異なるところがあったり、今より古い時代に作られた話のために、道理の通じないところがあった。
そういった説話のひとつひとつをたずねてまわり、収集した話を物語としてわかりやすいよう整理し、編纂した男がいた。
男の名は、ヴィエルジュ・リシュリュー。
百五十年前を生きた男だ。
彼はこの国が言語を統一する前に生まれた。
彼の母語は古セプト語。
当然彼は、古セプト語でその民話を編纂し、発行した。
彼が生きた長い生の途中、代替わりした王によって、新たな公用・共通言語の作成が言語学者たちに命じられた。
結果、その新言語は完成し、国中に普及することがかなった。
しかし彼がその新言語を用いることはなかった。
古セプト語を理解できる民族は、いまもなお存続している。
しかし、この国はそもそもが多民族国家だ。
言語統一以前には、さまざまな言語が用いられていた。
古セプト語以外の言語を母語としていた地域のひとびとには、彼の編纂した民話を理解することはできなかった。
そのために、彼の編纂した民話は、幾度となく幾人の手で、ひそやかに翻訳されてきた。
というのは、「これは建国神話ではないのか」と、学者たちのうちで、まことしやかに囁かれていたからである――ということだそうだ。
詳しくは知らない。
建国神話という国にとって重要な因子を抱えながら、いや、だからこそ。
表立ってその疑惑を口にする者はおらず、彼の編纂した民話の初版や、その翻訳本が一般に広く知られることはなかった。
しかし彼が編纂発行し、百五十年の時を経た今。
この民話は「もしかすると建国神話かもしれない」という、砂糖を煮詰めたシロップのように甘く魅惑的な疑惑つきで、民に広く知られることとなった。
なぜなら、この国の第一王子みずからが、民話の翻訳を改めたからである。
王太子である第一王子が、このあやしげないきさつの民話につけた題は、『獅子に魅入られた男』。
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新訳『獅子に魅入られた男』
作者不明 / ヴィエルジュ・リシュリュー編纂
アルフレート・ティグリス・フランクベルト訳
ヒューバートとオノレに。
誠実なる友情の礼に、この新訳を捧げる。
君たちの友アルフレッド
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彼、あるいは彼女、もしくは『それ』は、地上のひとびとから、全知全能の神と呼ばれたことがあった。
またあるときには、災厄の悪魔とおそれられた。
ときを超え、空をめぐり、海を渡り、大地を駆け。
卑小で世俗的な、愛すべきいたずら妖精の風評が、大陸で聞かれるようになった。
妖精というのは気まぐれなものだ。とは通説であるが、そのとおり。
彼、あるいは彼女、もしくは『それ』も気まぐれに、獅子の姿で少年の前にあらわれた。
少年は獅子の見事なたてがみにしがみつき、旅に出た。
天馬を落とし、竜を討ち、海蛇を串刺し、小人をそそのかしては仲間につけ、ついには巨人を倒した。
巨人の胴体から首が斬り落とされると、そこから数多の生き物が生まれた。
少年は巨人の骸から生まれた生き物を旅の仲間たちへと分け与えた。
少年が立派な獅子を従えていることに、彼らからつねづね羨望のまなざしを向けられていたからだ。
獅子遣いの少年のように獣を従えられると知り、彼らはとても喜んだ。
勝利の宴で、少年は彼らの勇猛なる長と讃えられ、そこへうるわしい、一人の乙女があらわれた。
「あなたの雄々しい立派なお姿をひと目見てしまえば、女は余すことなく、あなたの虜とならずにはいられないでしょう」
乙女は少年の愛を乞うた。
「どうぞ私を、あなたの一番はじめの妻にしてください」
少年は旅の間に、すっかり青年へと成長していたのだった。
青年となった少年は、その乙女を妻とすることに決め、寝床へいざなった。
夜が明け、青年が目を覚ましてみれば、隣に寝そべるのは、彼が情熱的に愛を注いだ初々しい妻ではなく、彼が冒険を共にした獅子の巨体であった。
驚いた青年は獅子のたてがみを引っ張り、妻を食べたのかと問いただした。
「いいえ。私は乙女を食べてはおりませぬ」
獅子は大きな口を開け、鋭く尖った牙をむいた。
「では申せ。我が妻はいずこに」
青年が怒鳴るも、獅子は耳をつんざくようなすさまじい咆哮を残し、姿を消した。
テントには青年と、それから赤子がひとり残された。
すべすべと柔らかい赤子の体温が、赤子の体に巡る血脈を青年に伝えた。
「愛しき妻の遺児よ。おまえは妻の形見」
青年は太陽に捧げるようにして、赤子の体を高くかざした。
陽光を浴びた赤子のちいさな手のひらには、脈打つ血が透けて見えた。
青年は赤子をもうけたその地に腰を落ち着け、仲間たちと暮らし始めた。
巨人の首から生まれ、仲間たちに分け与えた生き物は、人の集落と分かれ、森に住み着くようになった。
集落では、天馬や竜、海蛇など、彼らの倒した神獣を基に、剣や槍、盾に鎧を作り出した。
目玉や歯、鱗など、そのままで美しいものは宝飾に。
そのうち川を渡るための橋、麦をひくための水車小屋、立派な屋敷なども神獣の亡き骸を用いて建てるようになった。
死した神獣は皆巨体で、数も多かったので、彼らが暮らし営む分には、困ることはないように思われた。
彼らの集落は大きくなり、神獣の骸は爪一枚、毛の一本も残されていなかった。
しかしかつての赤子は、英雄の息子として、長として跡をつぎ、立派に集落をおさめるようになった。
神獣の骸が失われたあとも、彼らの暮らしは損なわれずに済んだ。
英雄と崇められた男は老人となり、頭に冠を載せ、剣と槍を胸に抱き、老境に至っては長らく焦点の合わぬようになった瞳を、ついに閉じた。
老いては狂人となった亡き父を、英雄の息子は哀れんだ。
いさましく、義心に満ち、理想を掲げ、情熱を失わず、公平で、慈悲深く、知略縦横に長け。
英雄と呼ぶにふさわしい、偉大なる父。
偉大なる父の晩年は惨めであったが、すくなくとも死は惨めではなく、穏やかに生を終えた。
英雄の息子は哀れな父のため、ようやくの安息を喜んだ。
しかし彼は、父の死に嘆き悲しむ子の心をもまた、失ってはいなかった。
「父よ、あなたは偉大でした」
英雄の息子は、膝をつき、父の死を悼んだ。
「人の生命は短くも、長い」
一陣の風が頬をなで、敷き詰めたウールの絨毯を青い光が照らした。
死せる父と英雄の息子ふたりきりのはずの、葬儀テント。
英雄の息子は、彼の妻子であってさえ何人たりとも、祭壇への侵入を許していなかった。
「何者ぞ!」
はっと顔をあげると、そこには父の亡き骸をくわえた獅子がいた。
「何者とな」
獅子は英雄の亡き骸を背にのせ、英雄の息子と対峙した。
「そなたの血にたずねるがよい」
獅子は去り、英雄の息子の足元には、父の剣に槍、冠が転がっていた。
呆然としながら、英雄の息子は父の形見を手に取り、やがて彼は長として、それらを身にまとうようになった。
英雄に英雄の息子。そのまた息子も、子子孫孫、長命であった。集落は栄えた。
しかしそれらの代償のためか。
時期の早い遅い、程度の違いこそあれど、彼らは一様に狂い、惨めな晩年を送ったのだという。
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訳者あとがき
まずはじめに、作者不明のこの民話について、各所に散らばった異なる伝承を収集し、それらを筋道の通るよう編纂した先駆者ヴィエルジュ・リシュリューに敬意と感謝を捧げる。
彼は私の先祖ヨーハン・フランクベルトの親しい友であったそうだ。
翻訳を新たに手掛けるにあたって、ときを超え、先祖に続き、彼から友情を受け取るような、不思議な心地となったことを、ここに白状しよう。
このいくぶん不気味なおとぎ話が、冒険に憧れる少年少女をささやかな幻想の旅へといざなってくれるよう願う。(残念ながら、後味の悪いことは否定できないのだが)
と同時に、こどもたちに読み聞かせるであろう大人のあなたがたの興味もまた、惹かずにはいられないのではないか。と、そのように思えてならないのである。
なぜなら叙事詩や歴史書に限らず、他愛のない民話がときに歴史を語ることは、周知の事実であるし、なにより私自身が、この説話に深き感興を催すためである。
今作によって、あなたが『獅子に魅入られた男』あるいは『獅子に魅入られた女』となることを――いや、ならずに済むことを訳者として、願ってやまない。
アルフレート・ティグリス・フランクベルト
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王太子が友人に捧げたらしい、冒頭の献辞はともかく。
あとがきまで目を通したところで、さてこの物語の示唆することとは。『獅子に魅入られた男』とは、いったい誰なのか。
この国に生きる、財も地位も教養もない、野次馬根性で好奇心だけムダに旺盛な、しがない市井の一人として、考えをめぐらせてしまうのである。
とはいえ、もしかすれば、それこそが光の王子アルフレッドと呼ばれる王太子の、国をまきこんだ、壮大にしてくだらない稚戯にすぎないのかもしれない。
大人びた語り口ではあったが、王太子はいまだ成人していない子どもなのだから。
あやしげな伝説や冒険に心躍らせる年ごろだ。
そうであれば、王子という、決して相まみえることのない、世界の違う殿上人にも、親近感がわくというものだ。そうだろう?
ご覧くださり、ありがとうございました。
今作は連載作「魔女の恋 〜150年前に引き裂かれた恋人達〜(https://ncode.syosetu.com/n1523gz/)」の閑話となる話を独立した短編として抜き出し、掲載しております。
あわせてご覧いただけますと、とても嬉しいです。
追記)
今作中の王太子の年齢は十三~十四で、この国の成人年齢は十五歳です。
(2025/02/25)