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氷砕ける時  作者: 六福亭
53/65

2-13

 その日のうちに、ナキシュニから呼び出しがかかった。チェロアの同僚を通して街中で声をかけられた。居丈高ではあったが、ならず者呼ばわりはされなかった。

 しかし、ナキシュニは苛立っていた。今日から祭りが始まるというのにまだ成果を出していないからだ。

報告すべきことはあるかもしれない。けれど口に出すのはためらわれた。ナキシュニの言う反逆とは、正にヒヅリたちだけが気づいている不思議な現象を指すのだろうか? だとしたら、何も防げなかったと俺が断罪されるだろうか。死の危機は出来るだけ先延ばしにしたい。黙ってうなだれていた。

 当然、ナキシュニは俺を激しく責めた。甲高い金切り声で、唾を飛ばして迫るナキシュニに、リートはやはり怯えていた。

 何も解決できない無能な怠け者め。寒さで愚鈍に育ったどうしようもない雪領人。もう我慢がならない、お前の子どもを切り刻んで野ざらしにしてやる。

 その時に言われたことのほんの一部だ。何故か本気であるとは思えなかった。ナキシュニは非常に焦っていた。恐らく錯乱もしているようだ。脅しをかけて急がせるためというよりむしろ、自分の中に溜めたごちゃごちゃした感情を機に乗じて排出していた。もし彼の目の前に立っているのが俺ではなくチェロアや長官であったとしても、同じように罵詈雑言を闇雲にぶつけるのではないか__そう思えるほどナキシュニの目は何も見ていなかった。ただ俺に怒り、自分に怒り、後悔が少しだけ混ざった支離滅裂な嫌悪を撒き散らした。

 この人は、怖がっているのだ。

 それがやっと分かった時、たまらなく悲しくなった。

 ナキシュニは、強いアミールでも何でもない。いい年した大人になった今でも真面目で臆病で良心の呵責を抱えて体調を崩すような、長官の小さな弟なのだ。数々の武功を上げ、異国人を地下に閉じ込めてきた残酷な側面が全てではない。

 窓の外に、人が集まってきた。ナキシュニの叫び声が遠くまで聞こえているのだ。

 もう十分だ。

『あなたは、何をそんなに怖がっているのか』

 とうとう尋ねると、ナキシュニは言葉を失い、頭を抱えた。気弱に吐き出される息は細かった。目にうっすらと涙すら浮かべ、もう出て行けと俺たちを追い出した。

 ナキシュニの屋敷を辞してから、リートが訴える。

「あの人、怖かったです!」

「そうだろうな。いつもあの人は怖い人だ。なるべく近寄りたくないね」

「どうしてあんなに大きな声出すの?」

「思い通りにならないんで悔しかったんだよ。お前だって嫌なことがあったら、わあっと叫びたくなるだろう?」

「なる」

 リートが素直に頷く。

「だけど、ああやって人の前で叫んだら、驚かせてしまうよな。だからリート、叫びたくなったら俺にすぐ言うんだ。外に連れてってやるから」

「チェロア姉さんも驚かせてしまう?」

「そうだな。リートが怒っていたら、チェロア姉さんだって、ジョム兄さんだって怒りたくなってしまうかもしれない。皆が叫んでいたら世界はとてもうるさくなってしまうね」

 リートは耳を塞いで首を横に振る。耳が良いこの子にとって、ナキシュニの金切り声は相当耳障りだっただろう。

「師匠、わあってしていいですか?」

 辺りを見回す。人の姿は遠い。さっさと逃げたい一心でナキシュニの屋敷はもう彼方だ。

「好きなだけどうぞ」

 リートは細い手足に力を込め、大きく息を吸い込んだ。ナキシュニがこの子のように素直であったならどれだけ楽だろうか。せいぜい横笛程の大声を張り上げるリートを眺めながら思う。

 リートは叫ぶのをやめ、口を大きく開いてぱくぱく動かしていた。

「何をしているんだ?」

 振り返ってリートは笑う。

「もう一個の声でわあってしたんです」

 魔物の声か。

「ここには仲間はいるのか?」

「お返事してくれる人はいません」

 少しがっかりした。ディルム創設に関わった女魔物の話はティウに教えてもらっていた。ひょっとしたらまだその魔物が生きていて、助けの手を差し伸べてはくれまいかと期待していた。

「師匠」

「何だ?」

「あのおじさん、ぼくと同じなの?」

「隊長殿のことか? ……」

 一緒にしたくない気持ちと、リートの聞きたいことを汲んで説明してやる義務感が戦う。

「……あのおじさんにはね、リートと同じくらい怖い物が沢山あるんだよ。でも、誰もあのおじさんを守ってくれはしない。だから俺に助けてくれって言ったんだよ」

「かわいそう」

 リートは澄み切った青空のような目を瞬く。

「師匠が助けてあげるんだね。怖いものがなくなるといいね」

 虚を衝かれた。ナキシュニを「助けてあげる」つもりはなかったからだ。今こうして彼に関わっているのは脅されて他にそ選択肢がなかったから、ただそれだけだ。

 いや……本当にそうか? 拘束されているわけでもなし、逃げようと思えば逃げられるのだ。砂嵐の中を超えていくのは経験済みだ。この町に居残り続ける義理はない。

 リートの大きな瞳を覗き込む。何年も経って(自分たちが運良く生き残っていて)リートが善悪の判断が自分でつけられるようになった時、やっと俺の行いの総括がされるのだ。神殿で出会っただけの子どもを盗んで逃げ出したこと、大勢の真神教徒を傷つけたこと、いつまでも安心のない流浪生活でこの子を振り回していること。この先同じことが繰り返されるならば、何も与えられないままただその日暮らしを続けるだけならば、リートを売った神官どもと変わらない。師匠と呼ばれる意味がない。

 数年後、リートはこの町での出来事をどれほど覚えているのだろう。可愛がってもらった楽しい記憶は残るだろうか。さんざん怖い目に遭ったことをそれまでにどれだけ払拭できるだろうか。自分を火あぶりにすると言い切った男をかわいそうと憐れんだ、幼い自分の優しさをいつまで心に残しておけるだろうか。

 そしてその頃、未来の俺はどんな顔してディルムでの思い出を語っているのだろう。

 今尻をまくって逃げ出したら、恥ずかしくてとても語れまい。何もかも中途半端に首を突っ込んだまま数々の謎を放り出したなら。 

 かといってあの状態のナキシュニを見捨ててヒヅリやジョムと仲良くガラス工房に閉じこもったとて、リートに胸を張れるのか? 助けが必要なのが誰か、自分にはよく分かっているはずだ。ろくな手助けができないこと。知っているが。

 魔法で何でも解決できるなど、真っ赤な嘘だ。ヒヅリ一人の胸の内も覗けない。ジョムの怒りを和らげることもできない。長官の期待に沿えそうもない。

 それでも、魔法に大きな可能性があると信じられているから、俺は今ナキシュニにすがりつかれつつ、ヒヅリの空想話を聞かされている。聞くことしかできない。何を話しても彼らには届かない。誰も彼も、自分が信じたい物しか見ていない。

 自分も同じだ。リートの邪気のない言葉一つで行き先を決めようとしている。リートがいるなら何でもできると勝手に依存する。

「リートは……」

 いつの間にかよそ見していたリートがくるりと向き直る。

「ヒヅリ兄さんたちが好きか?」

「うん、好き」

 うなずくのに一瞬の迷いもなかった。純粋な子どもほど「好き」を簡単に言える。

「あいつらが悲しい思いをしていたら嫌か?」

 リートは律儀に顔をぎゅっとしかめた。

「嫌」

「じゃあ、隊長殿が苦しんでいたら?」

「嫌」

 やはり即答だった。

「隊長殿は今正に悲しくて苦しい思いをしている。ヒヅリたちもそうかもしれない。……俺にしてやれることは何か必ずあるんだろうね」

 リートは大きく頷いた。話の半分もよく理解していないだろうに。

「よし。リートが信じてくれるなら頑張れるよ」

 休憩は終わりだ。ヒヅリに会いに行くことにした。彼の主張を聞きたい。

 ところが、思わぬ所で道草を食うことになった。


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