兄との出会い
そして、そろそろ六ヶ月ほどたつ頃だろうか。なんでわかるのかって? 実は寝返りに成功したからだ。移動範囲はベッドの中だけだけれど、それでも自由に移動できるのは面白い。右足をグイッとやって、最後に手でえいっと勢いをつける。ほらね? くるりと回った私は、うつ伏せから頭を起こし、誰もいない空間に向かってにやりと笑った。
いや、誰もいないと思っていた空間には、いつの間にか誰かがいたようだ。私はそこにいた少年と目が合ってしまった。少年は驚いたように目を見開いて固まっている。
「だーう」
思わず驚いて声をかけたら、その少年は、はっとして手を握りしめると、部屋から出て行ってしまった。うーん。思い返してみると、サラサラの金髪に、紫の瞳。年のころは10歳くらい。西洋人ぽい顔立ちの美醜はわからないが、結構な美少年ではないだろうか。
うん、おそらくあれが兄なのだろう。
私は上げていた顔を伏せると、もう一つ転がって元の場所に戻り、天井を眺めた。私が生まれたのがまだ肌寒い頃で、今は激しく動くと汗をかく。服も薄着になってきたし、なんならこないだお風呂であせもができたと大騒ぎになっていた。
つまり今は夏。そして夏といえば夏休みだ。夏休みと言えば、学生は帰ってくるもの。
帰って来たくなかった実家に帰ってみたら、そこには妹がいるはずで。その妹をちょっと覗いてみたくなったのだろう。初対面がニヤリでは残念極まりないが、ノックもせずに入ってきた兄が悪い。
それにしても、金髪に紫の瞳ってあんな感じか。私は鏡を見たことがないので、自分の容姿はわからない。ぷりぷりとした手と赤ちゃんなのに動きすぎて筋肉質なような気がする足。それから目の端っこに見えるポヤポヤした髪しか見たことがないのだから。
少しでも似ていたら、私は美少女かもしれないね。そんなことを考えながら、また寝返りをうった。
そのころから、離乳食も始まり、それと共にマーサの来る回数が減っていく。さみしいと思う反面、いつの間にか兄が来ていてドアを開けてじっと私を見ている。最初のころはちょっと警戒していたので、目を合わせないにらみ合いのようなことが続いたが、手を出してくる心配もなさそうなので、私は相変わらずおしゃべりしながらの寝返り、そして寝返りからのお座りに挑んでいる。
そう、起こしてもらえればお座りできるようになったのだ。離乳食を食べさせてもらうときにまことに便利なのである。
今度の目標は、自力でお座りできるようになること。とりあえず転がっていたら、ほっぺに何かが刺さった。
「だーい」
目だけを動かすと、兄が私のほっぺに指をさしていた。
「えーい」
やめろと。そう言ったつもりだったが兄は無表情に私のほっぺを指で押している。そりゃ柔らかいでしょ。だけどね。
「だい、だーい」
私はぺっと手で兄の指を払った。痛いんだってば。すると今度は両方のほっぺをつまんできた。ムニムニしている。
「だーい、だーい」
さわりかたが強いんだって。やめろ。
「だー」
つまむ力が強くなって、だんだん痛くなってきた。
「ぎゃー」
いくら言ってもやめないのが悲しくて、ついに涙が出てきた。
「あぎゃー、ぎゃーい!」
泣きわめく私にハッとすると、兄は私の多分赤くなったほっぺを見ると、
「ごめん、わざとじゃなかった」
と言って走り去った。わざとじゃなくても痛いものは痛いの。私は誰も来ないとわかっていても、ぎゃんぎゃんと泣き続けた。それを廊下で兄が聞いておろおろしているとも知らずに。
しかし、それからも懲りずに兄は来続けた。他にすることがないのかというくらいに。
「だ!」
赤ちゃんの警戒心など長くは続かない。油断していたらまた頬をつままれた。
「だーい」
や、め、ろ。しかし、今度の触り方は痛くなかった。私が不思議そうに見上げると、
「セバスと練習した」
とぼそっと言った。あらら、意地悪でやったんじゃなかったんだ。それならいい。私は嬉しくなって手足をバタバタすると、寝返りを打ってお座りをして見せた。そう、ついに自力でお座りができるようになったのだ。
私のどや顔がよっぽど面白かったのだろう。兄は、
「ふ、ははっ」
とお腹を抱えて笑い出した。そしてこう言った。
「なあ、抱っこしていいか」
「だーう」
私は断った。まずは親しくなってからだろう。いきなり抱っこなんて。しかも10歳の男の子なんて、赤ちゃんを抱っこしようとしたら落とすに決まっている。絶対に嫌だ。しかし私の嫌そうな表情は通じなかったらしい。
「よっと」
よせ、やめろ! 抵抗もむなしく、脇の下から手を回され、ぎゅっと引っ張り上げられた。そのままベビーベッドの柵を越えて持ち上げられる。
私は脇の下だけで兄に抱かれて、非常に不安定であり不愉快である。おしりも、おしりも支えないと苦しいでしょ。
「なんかおかしいな」
「だう」
「座ればいいかな」
「だーう」
今よりましかもね。兄はそのまま地面に倒れるように座り込み、勢い余って後ろに倒れこんだ。私はそのまま兄の薄い胸にうつ伏せに寝転がる羽目になった。
「いってー」
「だーう」
自業自得だよ。兄は私を抱えたまま、私の背中をそっとさする。
「あったかいな」
「だう」
夏だしね。
「やわらかいな」
「だう」
赤ちゃんだもの。兄は薄くて固いな。ご飯食べてんのか。私は手を伸ばして兄の頬をぺちぺちとさわってみた。
兄はその私の伸ばした手に自分の手をそっと重ねると、自分の頬にしっかり押し付けた。
「かあさま」
「あーい」
「かあさまと同じ、あったかい」
「えーい」
きっと同じじゃないんだろう。でもこんなふうに、お母さまは兄さまの頬をそっとなでて、抱きしめてくれていたんだろう。
「お前のせいじゃないんだ」
「あう」
そう。お母様が亡くなったのを私のせいにされても困るのだ。だって、
「私には母様との思い出がある。でもお前には母様の思い出すらないんだ」
そう、つらいのはほんとは私。
「にーに」
「え」
「にーに」
いくら前世の記憶があると言っても、本当はさみしかった。もっといっぱい抱き上げて、もっといっぱい話しかけて、大好きだよって、かわいいよって言ってほしかったんだ。
「リーリア」
知っていたんだね。兄はおずおずと私の名前を呼んだ。ならば答えようではないか。
「あーい。にーに」
「リーリア」
「にーーに」
私たちはひしと抱き合った。違った。私は兄にぎゅうぎゅう締め付けられた。やめろ、やめろ、何かが出ちゃう!
「ルーク様? あ!」
それはたまたまセバスが通り、私がバタバタしているのを見るまで続いたのだった。
兄はセバスに赤ちゃんの扱い方についてこんこんと説教された。私はその間、二人に忘れられて床に放置されている。これは……、チャンス!
ごろんごろんごろん。ベビーベッドじゃない広い床。どこまでも転がっていける。ごろん、ごろん、
「いいですか、赤ちゃんというものは、あ、リーリア様!」
「あ、リーリア!」
あっという間に捕獲されました。