人生二度目の眠れぬ夜
アレクサンドラの発言は明らかに王に対して相応しくない、無礼なものであったが、オシュクルがそれを怒ることは無かった。
ただ暫くの間思案気に顎を撫でて黙り込んだ後、一人で納得したようにこう言った。
「…まあ、知らないことを一度経験してみるのは、悪いことじゃないだろう」
そんなオシュクルの言葉に、アレクサンドラはムッと唇を尖らせた。
まるでアレクサンドラが遊動の旅に行って、すぐに挫折して戻ってくるかのような言い方ではないか。
「私は、そんな軽い気持ちで着いて行くと言ったわけではないわ!!少なくともまたここに戻って来るまでは、この王宮には戻らないつもりよ!!」
「……そうか。うむ。今のお前の気持ちが真剣なのは、重々承知した。まずは一度体験してみろ。話はそこからだ。そして体験してみてお前が無理だと判断すれば、またここに戻ってくればいい」
まるでアレクサンドラの言葉を信じていないであろう、どこか投げやりな調子のオシュクルの返答が、ますますアレクサンドラの心に火をつける。最早、アレクサンドラは完全に意地になっていた。
「ぜっっったい、三年間は遊動の旅を続けてみせるんだからっっ!!!」
酷く淡泊だったオシュクルの反応とは違って、大騒ぎしたのは、ルシェルカンドからアレクサンドラに同行した侍女や通訳達だった。
初夜を中断して夜分に集められた彼女たちは、アレクサンドラの話を聞くなり顔を強張らせて猛烈に抗議をした。
「遊動の旅に着いて行くなんて、一体何を考えられているのです!!」
「アレクサンドラ様のような、まともな鍛錬もしたことがない方が同行しても、邪魔になるだけではないですか!!」
「ただでさえ辺境の未開の地に来てうんざりしているというのに、何故アレクサンドラ様はこれ以上に環境を悪化させるのですか!?」
「ドラゴンですよ、ドラゴン。分かっているのですか!?遊動の旅に着いて行けば凶暴で、危険なドラゴンと一緒に旅をしないといけないんですよ。ああ、なんて恐ろしいのでしょう!!」
「そもそも、アレクサンドラ様は自身の立場をお分かりになっていらっしゃっているんですか!?貴女様は、ルシェルカンドの代表として、モルドラに来られたのですよ。それなのに、結婚初夜で王様に向かってそのように突飛なお願いをなさるだなんて…そう言った行為を、少しははしたないと思ってくださいませ!!」
侍女たちの抗議にも頷ける部分はある。他国に来たばかりで戸惑っている状態だというのに、一言の相談もなしに勝手に旅についていくことを決められ、翌日の早朝には出発しなければならない状況に立たされれば、それは文句の一つくらいも言いたくなるだろう。
「―黙りなさい…!!」
けれども、そういう心情を慮ったとしても、口々に好き勝手騒ぎ立てる彼女たちの姿に、いい加減アレクサンドラの堪忍袋の緒は切れた。
「誰に向かって文句を言っているの?貴女達は自分の立場というものを分かってないようね」
鋭い視線で睨み付けるアレクサンドラの視線に、侍女たちは口を噤んで狼狽える。
そんな彼女達をアレクサンドラは嘲るように鼻で笑った。
「ルシェルカンドを追われて他国に嫁がされた女と、貴女達は私のことを随分侮っているようだけど、少なくとも私には【モルドラの王妃】という立場があることを忘れないで頂戴。そして貴女達は所詮、私の侍女という立場に過ぎないということを。ルシェルカンドで貴女達がどんな立場で、どのような後ろ盾があるかなんて私はちっとも知らないけれど、それが一体遠いモルドラの地で一体どれだけ役に立つのかしら?そもそも、例え私の監視という名目であっても、モルドラへ共に追いやられている時点で、貴女達がどのような立場かなんてお察しだわ」
馬鹿にしたようなアレクサンドラの言葉に、侍女たちの表情に怒りと屈辱が滲む。
その姿に、アレクサンドラはこの一日の間積りに積もった苛立ちが、少し晴れるのを感じた。
もういい加減、あからさまにアレクサンドラへの侮りを滲ませる彼女たちに、うんざりしていたのだ。彼女たちは確かに、元々は王宮付の高位女官だったかもしれない。そして、そんな自身の立場に、きっと並々ならぬプライドを持っていたのだろう。
だが、そんな過去の栄光が、モルドラという異国で何の役に立つというのだ。過去の自分の立場を懐かしみ、今の主であるアレクサンドラにお門違いの逆恨みをするのでは無く、今の彼女たちの仕事である、アレクサンドラの監視なり世話に集中すべきではないだろうか。
現実が全く見えておらず感情のままに行動する彼女たちの姿は、アレクサンドラには非常に愚かに見えた。
(その場に応じて相応しい行動が取れず、感情のままに本音を出し過ぎるから、周囲から疎まれて、こんなところまで追いやられるのよ。人を恨む前に、自身の愚かさを反省したらどう?)
アレクサンドラのそんな侍女たちへの評価は、蔑ろにされて感情的になっているということを差し引いたとしても、客観的に見て間違ってはいない。
間違ってはいないものの、状況が異なるだけで、まさにアレクサンドラに対しても同様のことが言えるということには、彼女は全く気が付いていなかった。
人間というのはしばしば、他者の愚かさは気付けても、自身の愚かさは気づかないものである。そしてアレクサンドラは、そのような自身を棚に上げる傾向が、特に強かった。
「貴女達が、モルドラでの職務を放棄して、ここに残りたいというのならばいいわ。主として、私がそれを許可してあげる。けれど、貴女達がなんて言おうと、私はオシュクル様に着いて行くわ!!…例え、私一人だとしても」
アレクサンドラはそう高らかに言い放つと、話は終わりだと言わんばかりに、引き留めようとする侍女たちを振り切って、速足で初夜用に与えられた寝室へと戻った。
ベッドの上には、先に諸々の手配を済ませたらしいオシュクルが、しっかり剣の向こう側で大きな体を出来る限り小さく丸めて眠っていた。そんなオシュクルの姿に、アレクサンドラの頬は引きつる。
(――人の気も、知らないで!!)
アレクサンドラは明らかに熟睡しているオシュクルの姿に、ムッとしながら剣を間にして隣に寝転んだ。よっぽど剣を追い越して、アレクサンドラの方に背を向けているオシュクルに後ろから抱きついてやろうかと思ったが、あまりにはしたないのでやめておいた。
ただ一方的に背を向けられるのは不愉快だったので、アレクサンドラもまた、オシュクルに背をむけるようにしてそっぽを向いた。
明日は早い。アレクサンドラはそのまま固く目を閉じて、眠りの波が訪れるのを待った。
だが、長旅と急遽行われた結婚式のせいで体は非常に疲れ切っているのにも関わらず、先程の騒動で神経がすっかり高ぶってしまい、なかなか眠りにつくことが出来なかった。
(…少し、早まったかしら)
少し落ち着いて冷静になってみれば、感情のままに行動したことに対して後悔が湧いてきた。
先程侍女たちに捲し立てられた様々な事柄が、後になってから、不安としてアレクサンドラに襲い掛かる。本当に自分は、遊動の旅に着いて行くことなど出来るのだろうが。
だが、オシュクルに対しても、侍女たちに対してもあれほどはっきり宣言した手前、後から怖気づいて発言を撤回するわけには行かない。そんなこと、アレクサンドラのプライドが許さない。
(…大丈夫!!きっと何とか、なるわっ!!だって、私だもの!!)
根拠がない自信で自身を鼓舞するも、一度湧き上がった不安はなかなか消えてくれなかった。
穏やかなオシュクルの寝息を背中で聞きながら、アレクサンドラは、人生で二度目になる眠れぬ夜を過ごした。