55 かつての患者に調薬します
カイルの調薬を始める前に、アルノルトへの報告が必要だ。
護衛騎士のひとりに頼み、主城の執務室で仕事をしているはずの彼に伝言をしてもらう。
すると、アルノルトからの返事として戻ってきたのは、『分かった』という簡素なものだった。
(意外だわ。外交にも近しい行為だから、アルノルト殿下の監視下でないとお許しが出なさそうなものなのに)
どうやら彼は本当に、リーシェを限りなく自由にさせるつもりらしい。やはり真意が読めないと思いつつ、仕事に取りかかる。
(まずは、薬液を作らないと!)
薬草を積んだ籠を持って、リーシェは早速離城に向かった。厨房のかまどに火を入れて、複数の薬草を処理したものを煮込む。
鍋の管理を侍女に頼み、応接室に戻ったリーシェは、薬が煮詰まるまでのあいだカイルの問診を行った。
「……なるほど。それでは旅の道中は、あまりお食事を取ってらっしゃらないのですね」
カイルは、リーシェの問い掛けに俯いた。
「恥ずかしながら、船酔いが酷く……。海上では、ずっと船室に籠もっていました」
「それは大変でしたね。では、ガルクハインに到着なさってからは?」
「……到着後はずっと馬車酔いで……」
カイルは本気でしょげているようだ。
仕えている王子の姿を見て、ミシェルが柔らかく微笑んだ。
「でも、カイルも頑張ったんだよねえ。吐き気と戦って偉かったと思うよ」
「……ミシェル。頭を撫でるのはやめてくれないか」
「果物も吐いちゃって可哀想だったし。なんとか水や氷だけは口に入れさせたけど、私は他人の世話に向いてないからな」
ミシェルがカイルの銀髪をぽんぽんと撫でる。まるで、小さな子供にするかのように。
「私みたいな人間より、普通の薬師を連れてくればよかったのに」
するとカイルは、少し困ったような表情をした。
「もうじき王妃殿下のご出産だ。王室仕えの薬師は限られているのだから、ひとりでも多くお傍に残していくべきだろう。――もちろん、お前を残すという選択肢もあったのだが」
「だめだめ。出産なんていう素晴らしい分野、私の専門外に決まってるだろう?」
「つい先日、『牛の出産に立ち会わせてもらった』と血まみれで帰ってきたじゃないか。研究の一環ではなかったのか?」
「ううん。見たことなくて興味があったから、ついついはしゃいで参加しただけ」
「……お前、そんな理由でコヨル城を恐怖の渦に叩き込んだのか……」
その話はリーシェも聞いたことがある。『血だらけの不審者が城内を歩き回っている』ということで、それは大変な騒動になったのだそうだ。
ミシェルだけではなく、無関係のカイルまで王妃に呼び出され、ふたり並んで怒られたらしい。
(十八才のカイル王子より、先生の方が幼く見えることが度々あるのよね。もっとも、先生が何才なのかは誰にも分からないのだけれど……)
なにしろミシェル本人が、自分の年齢を覚えていないのだ。
外見だけでいうと、ミシェルは二十代半ばから後半くらいに見える。
しかし、それよりももっとあどけなく思えるときもあれば、長い年月を生きているような物言いをすることもあるのだ。
「ともあれ、今日の夕食は食べられたし。カイルの体力も、ちょっとずつ回復していくはずだよ」
ミシェルは言うが、カイルは浮かない顔のままだった。
「自己管理が出来ていなくて情けないです。もっと、己を厳しく律さなければ……」
「カイル王子」
コヨル国では、『殿下』よりも『王子』と敬称を付けるのが一般的だ。
だからリーシェは、かつての人生でそうしていたように、カイルのことをそう呼んだ。
「自己管理というのは、自分に厳しくすることではなく、自分を大切にすることですよ」
「大切に、ですか?」
「まずはたっぷり休んで、じっくりお風呂に入って、栄養のある美味しいものをたくさん食べます。伸び伸びと運動をして、いっぱい笑って、ご自分が好きだと感じられるような時間を過ごして下さい」
リーシェはカイルに微笑みかける。
「健康になるためには、そうやって人生を楽しんでいただかないと」
「人生を、楽しむ……」
噛み締めるように繰り返した彼を見て、リーシェは頷いた。
「お帰りのことは心配なさらず。船に酔わないようにする薬を調合しますから、お土産に持ち帰って下さいね。今度はきっと、景色を楽しむ余裕も出来るかと」
カイルは少し驚いたような顔をしたあと、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。リーシェ殿」
「いいえ。どうかお気になさらずに」
国交などの問題とは別に、彼には元気になってもらいたい。
そう思っていると、ミシェルが不意にこう言った。
「ところでリーシェ。薬の完成にはもう少し時間が掛かるって言ってたけど、そのあいだこれでも読んでみる?」
「!」
ミシェルが無造作に指し示したのは、彼が蒸留器と一緒に持ってきた書物だった。
先ほどから気になってはいたのだが、ひとつの可能性に思い当たる。リーシェと同様に、カイルも気が付いたようだ。
「先日見せてくれた、お前の研究記録だな」
「そうだよ。みんなに言われた通り、一応書き記してみたものだ。だけどやっぱり私には向いてないな、すべて自分の頭に入っているんだし」
「自分の興味がある研究以外、お前は忘れてしまうだろう? とはいえ、その記録は内容が難解すぎる。初対面のお方にいきなりお見せするには……」
「ふわああああ……!!」
受け取った書物のページをめくり、リーシェは思わず声を漏らした。
(先生の昔の研究結果!! 私が出会ったころには既に、実験材料として燃やされていた物だわ!! 何を書いたか覚えてないって言われるし、気になって気になって仕方がなかった記録……!!)
リーシェがまだまだ知らないことが、そこにはたくさん書き記されていた。
実験結果だけを割り出し、それで満足してしまったものがいくつもあるようだが、突き詰めればどれも様々な成果物に繋がりそうである。こうして少し読むだけで、止まらなくなってしまいそうだ。
「……驚いたな。リーシェ殿には、ミシェルの研究内容が分かるのか」
リーシェには聞こえていないその言葉を聞いて、ミシェルが楽しそうに笑う。
「ふふ。やっぱり、とっても興味深い子だなあ」
***
それから一時間ほどのあいだ、ミシェルに色々な質問をしながら過ごしたあと、離宮に鍋の様子を見に行った。
ある程度煮詰まったようなので、それを冷まして小瓶に移す。
応接室に戻ってから、ひとりだけ部屋に戻って休んでいたカイルを呼んだ。出来上がった薬の瓶を差し出したリーシェは、神妙な面持ちでこう告げる。
「完成したお薬はこちらになりますが……実はこの薬には、ひとつだけ大きな問題があります」
その言葉に、ミシェルが不思議そうな顔をする。
「副作用のことかい? 主立ったものは、眠気が出てくる程度のように思えたけれど」
「いいえ、副作用ではありません」
「お聞かせ下さいリーシェ殿。病を克服するためなら、僕はどんな試練も乗り越えましょう」
「カイル王子……」
リーシェはそっと目を伏せる。
つられて神妙な面持ちになったカイルが、ごくりと喉を鳴らした。
「この薬は、お味がとても不味いのです」
「『味がとても不味い』」
カイルに鸚鵡返しにされ、こくりと頷く。するとミシェルがにこにこ笑い、「なんだ、そんなことか」と言った。
「カイルは大丈夫だよ。何しろとても強い子だし、真面目で努力家だし。ね」
「先生、ハードルを上げるのは止めて差し上げてください!」
「は、果たして僕に挑めるだろうか」
カイルは怯んだ顔をしたが、決心したように目を瞑った。
「いいや、弱音を吐いている場合ではないな。これが僕に与えられた試練だというのであれば、全身全霊を持って挑むだけだ」
「か、カイル王子……」
「確かに凄まじい臭いがする。だが、かつての戦争で国民が舐めさせられた辛酸に比べればこれくらい……!!」
「そうだ、私がカイルに飲ませてあげよう。はいあーん」
「あああ先生!! 駄目です、せめて水を用意してから……!!」
リーシェが止める隙もなく、ミシェルが小瓶をカイルの口元に押しつけた。
慌てて何か言おうとしたカイルの口に、濁った緑色の液体が流し込まれる。
「――――……」
口元を押さえたカイルが、俯いて数秒ほど固まった。
恐らくは飲み込めないのだろうが、口の中に留めておけばおくほど辛くなる。リーシェが立ち上がろうとしたのと同時、ごくりと嚥下の音が聞こえた。
「か、カイル王子……?」
飲み切れたことにほっとしつつも、恐る恐る尋ねてみる。
「大丈夫ですか?」
「だっ、………………」
カイルが何か言いかけて、げほっと咳き込む音がした。
どうやら大丈夫ではなかったらしい。けれども彼は気丈にも、顔を上げて声を絞り出す。
「……大丈夫です……。以前、父に言われて食べていた土よりは、遙かに口当たりが良くて飲みやすい」
「口当たりも何も、このお薬は液体ですからね!?」
口当たりという概念において、固体と液体を比較するのは多分一般的ではない。
「ねえねえカイル、どんな味? どんな味がする?」
「苦みと酸味の入り交じった中に、独特の臭いが襲い来る。飲み干した後の妙な甘みが、舌に絡みついてぬるぬると……うっ」
「カイル王子、実況は大丈夫ですから!! すみません騎士の方々、カイル王子にどうかお水を……!」
「もうちょっと頑張って味わってみようか。ほら、もうひとくち――」
「先生!!」
それからしばらくのあいだ、応接室は大変な騒ぎになった。
それでもなんとか落ち着いて、カイルには自室へ戻ってもらうことにする。薬の効果は別にしても、休養はしっかり取ってもらわなくてはならない。
コヨル国の騎士に護衛を任せ、応接室にはリーシェとミシェル、それから護衛の騎士が残された。
「先生も、そろそろ塔に戻ってお休みください。騎士の方が案内をして下さるそうですから、その方がいらっしゃるまで少しお待ちいただけますか?」
「分かったよ。どうもありがとう」
時刻は夜の十時を過ぎる頃合いだ。リーシェも離城に戻り、眠る支度をする時間だった。明日も午前中は訓練だから、塗っている爪紅を剥がさないといけない。
(その前に、もう一度畑に寄っておこうかしら)
本当はすぐに寝るべきなのだが、あれこれと気になってしまうのも事実だ。
リーシェがそんなことを考えているあいだ、ミシェルは興味深そうに薬の残りを眺めたり、指ですくって舐めたりしている。
リーシェにとってはなんとなく、懐かしいような心地の時間だった。
(まさか、この人のことをまた『先生』と呼べる日が来るなんて)
思い出すのは、研究室と呼ばれる一室での出来事だ。
あのときのミシェルは、とある秘薬の材料を手にしていた。
珍しい光景ではなかったが、その秘薬にまつわる諸々を目撃する度に、リーシェの心はざわついたのだった。
恐らくは、その不安が表情に出ることも多かったのだろう。
『――お前は本当にこの秘薬が嫌いだねえ、リーシェ』
かつてのミシェルはそう言って、ふわりと笑った。
『お前は賢い子だ。それに、どこから得たのか興味深くなるような知識をたくさん持っている。教え子としての欠点を挙げるとすれば、その知識や技術を、人を幸せにすることにしか使いたがらないという点かもしれないね』
天才と呼ばれるその学者は、残酷にも見える微笑みを絶やさない。
『私は、他人の幸せをお前が決めるのは、間違っていると思うよ』
『……先生』
彼が指先で撫でるのは、秘薬の配合を記した紙だ。
『お前に分かりやすい例えを使うのであればね。毒薬として生まれてしまったものの存在意義は、役目通りに人を不幸にすることじゃないかな?』
製薬方法を記した紙なんて、本当はミシェルに必要がない。
仕えていた主君に命じられた時ですら、その記録を燃やしてしまったのだ。
そんなミシェルが、唯一自主的に書き上げたのが、くだんの秘薬の作り方だった。
『自分の生み出した薬には、その役割をまっとうさせてやりたいんだ。……ひょっとしたら、こういうのを親心というのかもしれないね』
冗談めかして笑ったミシェルに、あの頃のリーシェは言ったのだった。
『先生のことは尊敬していますが、私にはどうしても分かりません』
『分からないって、どんなことが?』
『先生の仰った、毒薬の存在意義についてです』
本当は、異を唱えるのは間違いだったのかもしれない。
しかし、どうしても飲み込めなくてこう続けた。
『毒薬には、本当に、誰かを幸せにすることは出来ませんか?』
『……』
そう尋ねると、ミシェルは驚いた顔をする。
しかし、リーシェは本気だったのだ。
『誰かを不幸にするため生まれたなんて、その決め付けこそが先生らしくありません。だって、それではまるで――』
『……そんなに心配しなくとも、この秘薬はまだ完成しないよ』
リーシェの言葉を遮るようにして、ミシェルは笑う。
『薬としては出来上がっている。だけど、実験に必要な人材が手に入らない。――この薬を、私が望んだ通りに使ってみせる、そんな人間がいないんだ』
『……必要なのは、一体どんなお方なのですか?』
『んん? そうだなあ』
ミシェルは人差し指を口元に当て、とびきり美しく微笑んだ。
『見つかるまでは、秘密にしておこう』
だから、この話はこれでお終い。
そんな雰囲気を言外に込めて、ミシェルは目を伏せたのだった。
(……私と先生は、あの秘薬のことでどうしても分かり合えなかった。最後にはお別れをすることになって、それきり二度と会えなかったけれど)
七度目の人生を送る今、こうして目の前に現れたミシェルを見て、リーシェは考える。
(先生は、探していたような人に出会えたのかしら)
そう考えていると、ノックの音が聞こえてくる。
部屋の外には、廊下を見張る騎士が立ってくれていた。
そこにひとり分の気配が増えているから、ミシェルのために手配した騎士が到着したのだろう。
「失礼いたしますリーシェさま。お迎えがいらっしゃいました」
思っていた通り、騎士が呼びに来てくれる。リーシェはお礼を言い、ミシェルに告げた。
「先生。お待たせいたしました」
「いえリーシェさま。到着なさったのは、エヴァン先生のお迎えではなく……」
「?」
不思議に思って見上げると、開かれた扉の前には、リーシェにとって思ってもみない人物が立っていた。
「リーシェ。帰るぞ」
「――――えっ」
どうしてか、毎夜遅くまで執務であるはずのアルノルトがそこにいる。