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33 真珠の涙

 リーシェのやりたいことをエルゼに告げると、彼女は興味津々とばかりに頷いて、快く両手を貸してくれた。


 エルゼの向かいに座ったリーシェは、最初に彼女の細い指を消毒する。

 爪や指先にしみるような傷がないことを確かめ、準備を始めた。


「ここからずっと東の国では、お花で爪を染める文化があるのよ。これはその文化と、爪の補強技術を合わせたものなの」


 乳白色の液に筆を浸し、エルゼの爪に塗りながら説明する。

 リーシェが遠い国の話をするのを、エルゼは不思議そうに聞いていた。


「補強ということは、爪が強くなるのですか? 私はいつも、すぐに割れてしまうのです」

「これを塗っている場所は、割れにくくなるはずよ。だけど一番はバランスの良い食事をして、お肉や魚、豆料理を食べることね」


 爪とは皮膚の一部である。肌にいいものは、爪にも良いのだ。


「肉、魚、豆」


 エルゼは呟き、こくりと頷いた。


「覚えました。これからはきっと、お給料で食べられるようになると思います」

「……エルゼのおうちも、大変な状況なのよね」

「うちは貧しいですし、兄弟も多いです。いまは肉や野菜が手に入ったら、小さい弟と妹に食べさせています」


 その話を聞いたのは、彼女がまだリーシェの侍女ではなかったときだ。


 家を助けるために働くエルゼは、どうしてもここで侍女として雇われたいのだと言っていた。


(以前、この国にも貧民街があると聞いたわ。確かガルクハインに来る途中、盗賊に襲われたあとの休憩中に)


 あのときは、アルノルトの臣下である騎士が、貧民街の出身だと教わった。


(アルノルト殿下の政策でも、すべての国民を救えたわけじゃない。そもそも彼の施策だって、何者かに一部を妨害されていたし……)


 そんなことを考えながら、すべての爪に下地液を塗り終える。


 いよいよ花で染めた樹液を筆に取ると、エルゼの目が釘付けになった。はみ出さないよう慎重に塗っていると、ほうっと感嘆の息が漏れる。


「……本当に、とても綺麗です。こんなきらきらした綺麗なもの、私は見たことがありません」


 このエルゼは、とてもお洒落の好きな少女なのだ。


 リーシェのドレス選びや髪の結い上げを、毎日楽しそうにこなしてくれる。手先も器用な彼女は、きっと自分でも上手に爪を塗れるだろう。


「いまはピンク色しかないけれど、エルゼの好きな色も教えてね。完成したら受け取ってほしいわ」

「だ……駄目です。こんなに素敵なものを貰ってしまうのは、駄目です。我慢しなくてはいけないと、思います」

「あら、そんなことないわよ。エルゼたちに使ってもらえるなら、私も嬉しいもの」

「リーシェさま……」


 右手を全部塗り終えて、リーシェはほっと一息つく。この作業は、失敗すると修正が大変なのだ。


「どんな色がいい? 勿忘草の青色や、向日葵の黄色もあるわよ。赤もオレンジもピンク色も、紫だって」

「……」

「エルゼの白い指には、きっと何色でもよく似合うわね」


 微笑んでそう言うと、エルゼはどこかぽかんとした表情でリーシェを見た。


 かと思えば、彼女の大きくて丸い瞳から、ぽろりと涙の粒がこぼれる。


「エルゼ!?」


 突然泣き始めた侍女を前に、リーシェは慌てた。


「ど、どうしたの? もしかしてやっぱり傷があった!?」


 液がしみていたら大変だ。しかし、エルゼはふるふると首を横に振った。


「いいえ、違います。ただ、とても嬉しかったのです」


 そこで一度言葉を切って、エルゼは瞬きをする。


「……私は。こんなに綺麗なものを持っていたことが、一度もありません」


 彼女が話してくれているあいだにも、涙はいくつもいくつも頬を伝った。


「私にもっとも必要なものは、弟や妹たちが食べるご飯でした。少しでもお金が手に入ったら、生きていくために必要なものを買わなくてはいけません」


 小さな声が、どんどん涙声に変わってゆく。


「髪飾りなんて持っていたことはなくて、服もいつもぼろぼろで、男の子のおさがりを着ていました。……だから、お城でこんなに可愛らしい制服をいただいたときは、本当に嬉しかったのです」


 リーシェは思い出す。

 エルゼと初めて会ったとき、彼女は、制服が汚れてしまったことをとても悲しんでいたのだ。


「リーシェさまに雇っていただいて、制服を正式に貰えただけでも幸せでした。他の綺麗なものは全部、我慢しなくてはと思っていました。だから……」


 エルゼは手の甲で涙を拭う。


「嬉しいです、リーシェさま。……どんな風にお礼を言ったらいいか、分からないくらいに、とても嬉しい……」

「……エルゼ」


 リーシェはそっとエルゼの頭を撫でた。


 この離宮の侍女たちはみんな、家族のために働いている。エルゼのように、自分自身の憧れや夢を押し込めている子たちだって、少なくはないだろう。


(――私のやろうとしていた商いには、いまの私に必要な考えが、欠けていたのだわ)




 ***




 約束の期限の日。


 主城の応接室には、アリア商会の会長タリーと、商会の幹部四名が揃っていた。


 タリーを中心にし、左右に控える幹部たちは、リーシェにとっては懐かしい顔ぶれだ。


 一方のリーシェは彼らに向かい合い、商品についてを説明する。


「――そしてこのように、爪を装飾します」


 リーシェの後ろに並ぶのは、七人の侍女たちだった。


 彼女たちの爪はそれぞれ、薄紅色や鮮やかな青、淡い緑、透き通った黄色などに色づいている。

 樹液でつやつやと輝く爪先は、とても美しい。


「ガルクハイン皇都の状況は、資料の通りです。庶民家庭でも余裕のある家は多いですが、女性向けの装飾品はとても高額。お洒落を楽しみたいけれど、宝石やドレスなどには手を出しにくい女性たちは、この商品を気に入ってくださるでしょう」


 タリーに向け、一枚の書類を差し出す。

 材料名は伏せた上で、仕入れ額や製造費などの概算を書いたものだ。


「それからこちらは、皇都に出入りする方の通行証記録ですわ。見ていただくと分かるように、働き盛りの男性の旅人が多いのです」

「そのようだな。そしてこういうやつらには、帰る家や待っている家族がいる」

「ですからお土産としても最適なのです。この瓶は小さくて、かさばりませんし」


 小さくてかさばらないということは、国外に流通させるのも容易だということだ。

 行商が主な販売方法であるアリア商会にとっても、都合が良いだろう。


「いかがですか? タリー会長」


 リーシェの話を黙って聞いていたタリーは、リーシェから視線を逸らさないまま、他の幹部たちに尋ねた。


「チェスター、メルヴィン、ニール、ラッセル。お前らの意見を話してみろ」


 名指しされた幹部は、それぞれの意見を述べる。


「会長、俺はありだと思うぜ。原価計算をどこまで信用するかはともかく、これだけ安く抑えられるなら、量産が出来るってことだ」

「あの一瓶に値段をつけるとして、庶民向けなら二千ゴールドってところか? それでもこれだけの粗利になる」

「染料に花を使っているんだろう。その国でしか咲かない花を染料にすれば、他国で付加価値付きで売れるしな」

「ったくよお。お前らは本当に野暮だねえ」


 部下たちの話を聞いたタリーは、額を押さえてやれやれと肩を竦めた。


「やれ原価だの、粗利だの。そんな面でしか商品を見れねえのか」

「じゃ、じゃあ会長はどうだっていうんだよ」

「決まってんだろ。この商品がアリかナシかを決定づけるのは、この一点のみだ」


 タリーはそう言って、やさしく微笑みかける。

 リーシェや部下たちにではなく、この場にいる侍女たちに向けてだ。


「どうぞ意見をお聞かせください、愛らしいお嬢さん方。その爪の装飾をしてみて、どのようなお気持ちですか?」

「え、ええと……」


『大人の男の色香が漂う』と言われるタリーの微笑みに、侍女たちはほんのりと頬を染めた。

 リーシェは内心で、彼女たちが今後ろくでもない男に騙されないよう強く願う。


 侍女たちは最初は遠慮がちに、しかし口々に話し始めた。


「私たちはお仕事をしているとき、手元を見ることが多いのです。そんなとき自分の爪が綺麗だと、目に入るだけでわくわくして嬉しくて!」

「こんなに素敵な爪なんだから、私はいつもよりお仕事が出来るんだぞ! っていう気持ちになりました。ふふ、変ですよね」

「右手は自分で塗るのが難しいから、侍女同士で塗りあいっこをしたんです。お喋りしながら色を塗って、それが楽しくて! もう少し上手になったら、絵を描いてみようねって話してるんですよ」


 侍女たちは嬉しそうにはしゃぎながら、口々にそんなことを話してくれた。

 最後にエルゼが、はにかみながらこう口にする。


「私は、嬉しかったです。ただただ、とても、嬉しかった……」

「……エルゼ」


 彼女が爪に塗っているのは、ガーベラから取った珊瑚色だ。

 好きな色を改めて尋ねたとき、彼女は迷わずに、「リーシェさまの髪色と同じものを」と答えたのだった。


「なるほどね」


 タリーは、背もたれに体を預けた。


「彼女たちの顔を見れば、この商品が成功するかどうかは明白だ。仕入れ値だのなんだのと、そんな計算をするまでもない」

「じゃあ会長。リーシェさまへの課題とやらは、これで合格ってことか?」

「……」


 その瞬間、タリーの目に油断ならない色が滲む。


「――さあ、どうだかな」


 怪しくなってきた雲行きに、侍女たちが顔を見合わせた。


 タリーは、リーシェがテーブルに並べた数枚の書類を手に取ると、それを改めて眺めながら言う。


「商品価格ってのは、ありとあらゆる付加価値も込みでつけるものだ。原価が安かろうと、量産が可能だろうと、商品の価値には関係ねえ」

「それは、そうだけどよ」

「独自性がある、需要も見込まれる、これだけの品だ。俺が発案者であれば、販売価格を吊り上げて貴族向けに売る」


 リーシェの内面を探ろうとする視線が、真っ向から注がれた。


「お聞かせいただきましょうか。あなたさまの、本当のお考えを」

「……ふふ」


 やはり、タリーにはお見通しだったようだ。


「ありがとうございます、タリー会長。この商品を気に入ってくださったということで、ようやく本題に入れますわ」

「リーシェさま、会長、一体どういうことなんです? 本題って、それじゃいままでのは……」


 狼狽える幹部をよそに、リーシェとタリーはテーブルを挟んで対峙した。


「ここからが、事業についてのお話です。……タリー会長」




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[良い点] スタートからチートと違い、死んでやり直す。でも、一つ一つの人生で色んな経験を積んで今世に至っているという流れが、よくある2週目前提の乙女ゲーム的でありながら、恋愛や前世の知識を生かした新事…
[一言] はじめまして。こんにちは。昨日の夜にはじめまして読みました。とても面白くて昨日は夜中の2時まで読みフケていました。こんなに時間を忘れて文章が読めたのは本当に久しぶりの事です。次の更新はまだか…
[良い点] 素敵なタイトルですね。エルゼの気持ちに共感して涙が出ました。合理性がすべてではないってことなのかな…。各キャラクターの考えていることが見えないので、想像する楽しみがあります。いつか別視点で…
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