15 蔑みなんて、痛くも痒くも
『今夜の夜会は、主城の中ホールで行われる小規模なものだ』と聞いていた。しかし、音楽隊の演奏が鳴り響くダンスホールには、あまたの客人たちが集められている。
鮮やかなドレスを身に纏った女性たちや、この国の正装だという軍服を纏った男性陣。一目に上等と分かる装いをした面々が、グラスを手に談笑していた。
アルノルトの腕に手を掛けたリーシェは、入場前の入り口で立ち止り、辺りを窺う。
「……なんだか、想定していたよりものすごい会なのですけれど」
「そうか。この城で開かれるものにしては、いささか大人しい方だが」
「た、大国基準……」
このホールに集まっているだけでも、リーシェの祖国で行われる大規模な夜会の人数だ。改めてガルクハイン国の豊かさに驚いたリーシェだが、一方のアルノルトは、心底くだらないと言いたげな表情だった。
「何人集まろうと、ここで行われるのは馬鹿げた腹の探り合いだけだ。そら、来たぞ」
彼の言う通り、入り口付近で立ち止っていたリーシェたちを見つけて、客人たちがあっという間に集まってくる。
「アルノルト殿下。今宵はお招きに与り光栄です」
「……リーベル卿。ご足労いただき感謝する」
「殿下! 無事にお戻りで何よりですな。どうかこちらで我が娘に、旅のお話を聞かせてやってください」
「あいにくだが、取り立てて語るようなことは何もない」
大勢の人々に取り囲まれたアルノルトは、はっきりと不愛想だった。
リーシェから見上げた横顔も、普段とは違って冷淡なものだ。その整った顔立ちのせいで、一層冷酷に見えるせいもあるかもしれないが。
(とはいえ、私の頭の中にある『皇帝アルノルト・ハイン』も、この冷たそうな顔の方が近いのだけれど……)
そう思っていると、リーシェの視線に気が付いたアルノルトがこちらを見下ろした。
そして、これまでの仏頂面をやめたかと思えば、会場に来て初めての笑みを浮かべる。
「――しかし、僥倖な旅ではあったな」
その不敵な笑みに、女性たちの頬が赤く染まった。
だが、当のアルノルトはその熱いまなざしを意にも介さない。代わりに、隣に立っていたリーシェの顔を覗き込むと、口づけでもするのかというほど間近で微笑みかけてくる。
そして、こう言い放つのだ。
「こうして、妻となる相手を見つけることが出来た」
「……っ」
ざわっ、と辺りに動揺が走る。
整った顔立ちを至近距離で見てしまい、リーシェは目の奥がちかちかするのを感じた。一方で周囲の女性たちは、アルノルトが見せた表情に騒然とする。
「で、殿下が笑っていらっしゃる……? あの『人質』相手に?」
「妻ですって……! いままで、私たちには見向きもなさらなかったのに……」
ひそひそと小さな話し声であるものの、くちびるの動きでおおよその内容は分かった。歩み出てきたのは、娘らしき少女を連れていた恰幅の良い男性だ。
「殿下。ではこちらの美しきご令嬢が、婚約者であらせられる――……」
一斉に周囲から向けられたのは、ジリッと突き刺すような視線だ。
好奇。嫉妬。侮辱。下心。隠しているつもりだろうが、それらの感情がまるで隠せていない。
昨日のオリヴァーには、なるべくこちらを不快に感じさせないようにとの気遣いがあったのに。
でも、こんなもの痛くも痒くもない。
(まあ、公衆の面前で婚約破棄される場面に比べればね)
しかもリーシェは、それを七回繰り返している。その婚約破棄にすらなにも感じていないのに、こんな状況で怯みはしない。
だからふわりと微笑むと、ドレスの裾を持って礼をする。
「お初にお目に掛かります。リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します」
右足を斜め後ろに引き、左足を曲げて、背筋はまっすぐにしたまま柔らかく頭を下げる。
その一礼に、『人質として連れてこられた格下国の令嬢』へ難癖をつけてやろうとしていた貴族たちがたじろいだ。
リーシェの姿勢は、厳しい王妃教育の中で徹底的に仕込まれたものだ。一部の所作に、他の人生でついた癖が出てしまうこともあるが、それを気取るのはアルノルトくらいだった。
アルノルトは満足そうに、リーシェを見る。
「――彼女は他国から来たばかりで、頼る者もまだ少ない。夫となる俺が至らぬときは、どうかみなで助けてやってほしい」
「も……もちろんでございます、殿下」
「行くぞ、リーシェ」
アルノルトに手を取られ、リーシェはその輪を離れた。
会場内の視線は、いまや一手にこちらへ向けられている。リーシェは周囲に気づかれないように、そっと小声で抗議した。
「……他のご令嬢たちに、余計な火種を撒いてくださいましたね」
「火種とは?」
「もちろん嫉妬です。あんな風に『妻』なんて強調しては、闘争心を煽るだけですわ」
するとアルノルトは、ふんと鼻を鳴らした。
「俺がお前を顧みなければ、飾りの妻と判断して排除する動きが出てくるだろう。俺の婚約者という時点で、どうあれお前は攻撃の対象になる。であればいまのうちに、公の場で示しておいた方がいい」
「示すとは、何を?」
「俺が、どうあってもお前を守るということを」
「……」
しれっととんでもないことを言われ、リーシェは思わず瞬きをした。
(守る? ……守るですって! アルノルト・ハインが、私を!)
よく分からないむずむずした感覚が生まれ、戸惑ってしまう。
それどころか、前の人生ではあんな風に殺したくせに。もちろんそんなことを言うわけにはいかないし、訳が分からないと思われるだけだから、言葉に詰まった。
迷った末に、リーシェは切り出す。
「守られる必要は、あまり。どちらかというと、私にとって一番危険なのは殿下ですし」
「ほう。俺が危険とはどういう意味でだ」
「色んな意味で。とりあえず、剣技では敵う気がいたしません」
悔しいけれど間違いない。しかし、それを聞いたアルノルトは楽しそうだった。
「近々、俺とお前で手合わせしてみてもいいかもしれないな」
「それはぜひお願いしたいですわ! 贅沢を言えば、稽古もつけていただきたいですけど」
「まあ、構わないが」
「本当ですか!?」
アルノルトの使う剣技のことを学んでみれば、彼の攻略法も分かるかもしれない。
あの剣速や力強さの域までは到達できなくとも、なんらかのヒントが得られるのではないだろうか。リーシェが期待に目を輝かせると、アルノルトは肩を震わせて笑った。
「やはりお前からは、期待以上の答えが返ってくる」
「ど、どういう意味ですか。……それと、曲が始まるようですけれど」
流れてくるのは柔らかな旋律だ。ホールに集まっていた人々が、中央と壁際とに分かれてゆく。気付けばリーシェたちの周りは、これからダンスを踊るのであろう男女だけになった。
皇太子とその婚約者がどうするのか、それとなく注目されているようだ。
「無理に踊る必要はないぞ」
「あら。私だって、どうせなら楽しみたいですよ?」
彼からの問いを挑発と受け取り、リーシェは改めて右手を差し出す。
「……分かった」
アルノルトはその手を取ると、人の少ない空間へと自然に誘導してくれた。普段、女性たちにはすげなくしているかのような言われようだったが、その割には慣れた様子だ。
ホールの中央に移動すると、向かい合って手を繋ぐ。
アルノルトはもう一方の右手を、リーシェの背へと回した。
(わ……)
やさしく添えられた手は、思っていた以上に大きくて男らしい。そのことに、リーシェは息を呑む。
ここまでアルノルトに近づくのは、これが初めてではないだろうか。