第35話 旅の終わり
順調に思えた私の逃亡は、夜を迎えることなくあっけなく終わった。王都から離れた寂れた街道には似つかわしくない程の立派な石造りの橋。その下に集まっている王家の旗を掲げた兵士の集団に向かうように、船は走った。岸辺に近づくと、駆け寄ってきた兵士たちが訓練されたように慣れた様子でテキパキと小舟を引き上げ、緋色の布が敷かれた足置きが置かれる。まるで、城の馬車寄せのようだ。
壮年の、立派な防具を身に付けた騎士が前に進み出る。
「お迎えにあがりました」
巡礼者の身なりをして、手や顔を灰で汚している私に戸惑う素振りもなく、恭しく手を差し出してくる。
「足元が悪くなっておりますので、お気をつけて」
身のこなしや身に付けているものを見るに、この騎士本人もそれなりの家柄なのだろうに、私を上位者として扱ってくる。逃亡者を捕まえに来たという様子は全くなくて、私は戸惑ってしまう。
さっと視線を巡らせる。周囲には建物やひと気もなく、30人程の兵士に囲まれている状況で、何をしても逃げ切れる気がしない。私は一つ息をついて、騎士に手を預けた。王家の旗を持っているのだから追手ではあるのだろうけれど動きが早すぎる。しかし手荒くされる気配もないし、まずは状況を探ることにした。
小舟を降りると、そのまま橋の下に誘導されていく。
「こちらでお待ちください」
私を立ち止まらせると、騎士が一人石組の橋脚の前に立ち、何事かをする。ゴゴゴッと石が擦れる音がして一部が回転扉のように開き、通路が現れた。
「どうぞ、こちらに」
いわれるままに騎士の後について歩き出す。灯りも窓もないのに、歩くのに不自由しない程度に明るい通路には見覚えがある。城から水車小屋までの秘密の通路だ。
つまり、ここも城と同様の技法で作られた施設。彼らが兵士になりすました暴漢や人さらいなどではなく、王家の支配下だと確信できた。だから、私は騎士にきいてみる。
「どこにつながっているの?」
「……西の砦でございます」
目的地を知らない私に騎士は少し訝し気な顔をして、それでも上位者に対する態度を崩さなかった。なぜ彼らがあそこにいたのか知りたかったけれど、これ以上質問すれば立場が悪くなりそうで、私は黙ってただ歩いた。
気まずい沈黙の中しばらく進んで、長い階段をあがり、いくつかの扉を潜った。後ろをぞろぞろと歩いていた兵士たちはいつの間にかいなくなり、騎士と数人の兵士と共に、私は頑丈そうな黒光りする扉の前についた。
「こちらでお休みください」
通された室内はこじんまりはしていたものの、テーブルに椅子、天蓋のついたベッドやチェストなど一通りが揃っている。城の客室の一つのように瀟洒で落ち着いた雰囲気だ。知らなければ、とても砦の中とは思えない。
「食事とお湯を運ばせます。扉の外には兵士が立っておりますので何かあればお声かけ下さい」
そういって一礼すると、騎士が重い扉を閉めた。私は一人になった。
改めて室内を見回す。公爵令嬢としては慣れた室内の設えだけど、ここには窓がなかった。柔らかそうな椅子が目につく。緋のベルベッドに美しい小花が刺繍されている。
「今の私が座ったら汚してしまうかしら」
掃除をする人に悪いなと思いながら、疲れには抗えず腰を下ろした。
少しして扉が叩かれる。返事をすると扉が開き、年配の女たちが何人か部屋に続くお風呂にお湯を運び入れる。
「お湯浴みをさせていただきます」
一人の女が怯えたように私の前に進み出た。
「大丈夫、一人でできるわ」
努めて笑顔を作り答えると、意外そうな顔をしたけれど。
「で、では。失礼いたします」
逃げるように退室していった。
お風呂を終えて、置かれた着替えに手を通す。華美ではないけれど、質の良いドレスだ。浴室を出ると、先程のテーブルに湯気の立つ食事が置かれていた。
「いただきます」
お腹が空いていた私は早速食べることにした。
この待遇からみて、ここはおそらく落ち延びてきた王族を保護するための施設なのだろう。逃亡者として追われているのではなく、何らかの事情で現れた王族としてかくまわれているようだ。
「王族の非常手段なんだもん、そりゃ逃げたら逃げっぱなしってことはないよねえ」
誰にともなくぼやく。乙女ゲームでは関係がないから『水車小屋への通路と小舟』の話しかでなかっただけで、現実の王家としては最初から西の砦での回収がセットの設備なのだろう。よく考えればわかることを、私が迂闊だっただけだ。
「これから、どうなるんだろう」
一番恐れていた、乙女ゲームには出てこない環境や状況のど真ん中で、今の私にできること。とりあえずは更なる逃亡の機会を伺って情報収集するくらいしか思いつかない。ゲームでは、婚約破棄後は領地に蟄居になった。いきなり処刑や炭鉱送りになるような世界観ではないし、連れ戻されても元々のルートに戻るだけじゃないだろうか。
「まさか捕まると思ってなかったから言い訳なんて考えてなかったよ」
私は腕を組んで思案する。そうだ、殿下から婚約を破棄されたショックで居ても立っても居られずに逃げだした。そういうことにしよう!
殿下の護衛騎士や従者たちには未だに、人知れず剣術を習ってしまう程殿下一筋と思われているようだから説得力もあるはず。なにより、王家には婚約破棄という負い目がある。多少の不敬を問われることがあったとしても、私が被害者なのだと儚げに振舞おう。
私は国王陛下をはじめとしたお偉方にぐるりと囲まれて、どうしてこんなことをしでかしたのかと事情聴取を受ける自分を思い浮かべる。
貴婦人の象徴ともいえる腰まであった長い髪が、すっかりと短くなっている私。質素なドレスに身を包み、肩を窄め、ハンカチで涙ぐむ目元を抑える哀れを誘う姿は雄弁に語るのだ。
『やあやあ、我こそは! 平民の特待生に負け、公衆の面前で長年の婚約者に振られた哀れな公爵令嬢なり!』
ふふっと笑いがこみ上げてくる。王妃殿下はきっと、苦々しい顔をするんじゃないかな? だって、私は王太子殿下の不貞の証でもあるのだ!
むしろ危ないのは、まだ教えられていないはずの王家の逃亡ルートを使ったことだと思う。王家の秘密の漏洩は大問題。これは殿下に教えて貰ったと言い張ればいい。子供の時分だといえば殿下のほうも記憶があやふやだろう。それでも疑われたら『12歳の誕生日に、お前ももう知ってもいい年頃だと父上が教えてくれたんだ』っていうゲームのセリフも添えてみようかしら。
なんだかいけそうな気がしてきた! 私は鼻息荒く食事を終え、ベッドに入る。けれど、疲れているのに眠れない。灯りを細くしてしまったせいか、やっぱり巡礼馬車に乗ればよかったとか、もっと早く小舟を降りていたらとか、明日はどうなるんだろうとか。後悔や不安でいっぱいで。
「大丈夫、なんとかなる! 私の幸運値はこの世界で最高のはずだからね!」
自分に言い聞かせるように、あえて明るい声でいった。追加とばかりに胸の前で手を組み、自分に祝福と治癒を贈る。そしてシグルドたちにも。
ふわりと立ち昇る金の粒子がゆっくりと自分に降り注いで、体がポカポカしてくるのを感じながら、私は眠りに落ちていった。
翌日、朝食を済ませるとすぐに昨日の騎士が現れた。案内された先に止められている馬車は、小ぶりで紋章はついていない。差し出された手を借りて私一人が乗り込むと、外からガチャリと錠がかけられた。曇りガラスの窓は嵌め殺しで開くことができない。
「バレちゃったみたいね」
私は訳アリ王族ではなく、逃亡令嬢だと。いくら上等な馬車でも、これは護送なのだ。それでも、座り心地がよい椅子であったことが救いだった。
それから、馬車はひたすら走った。時折休憩が挟まれるが、馬車の外は大体ひと気がない場所ばかり。所要時間よりも目立たないことを優先して経路を選んで遠回りをしたのだろう、私は二日ほど馬車に揺られ、暗くなってからひっそりと公爵邸ではなく城に入った。