ブレイキング・ザ・ハビット ──「貴方は、どんな花がお好き……?」
同刻、東京駅地下。
国防陸軍特殊部隊【WASP】のアルファ小隊長、左崎一郎少佐は、重苦しく不快な昏倒から覚醒し、大きく息を吸い込んだ。
「……うう……クソッ……!」
左崎は、自分の身体が動かない事に気が付いた。
壁に、大の字の形で磔にされているのだ。
ここは妙に暑い。まるで、熱帯だ。
左崎の顔は、既に汗まみれだった。
額から垂れた塩辛い汗の雫が瞳に入り、しみる目蓋を何度も瞬かせながら、左崎は薄闇に覆われた周囲の様子を必死に確かめる。
この世の物とは到底思えない光景が、そこにあった。
鬱蒼と草木が生い茂り、あちこちでミイラのように干乾びた人間の死体が絡まっていて、朧げな光を放つ奇怪な花々がそこに根付いている。
左崎の両腕、両足は、壁に穴を穿って生えた鉄線の如く頑丈な黒いツタによって縛られていた。
幸か不幸か、まだこの身体には花は取り付いていないようだが、ここから早く脱出しなければ、いずれ同じ運命を辿ることになることは間違いないことだ。
悪夢のような光景に、左崎は慄いて身悶えする。
ここは死後の世界──黄泉の国なのか。
そう思ったが、違った。
すぐ近くの『床』に草が絡まった案内板があり、屍から生えた花の小さい灯りが、刻まれている『東京駅』という文字を照らし出していた。
これが東京駅だと……? ふざけるな……!!
我々は、あらゆる卑劣なテロリストに対抗すべく訓練を積んできた。
だが、こんな異世界の怪物と戦う術を記したマニュアルなんて存在するわけがない。
戦闘ヘリが墜落し車列が壊滅した後、WASPアルファ小隊とブラヴォー小隊の生き残りは、事前に受けていた対外秘の命令通り、警視庁のSATと銃器対策部隊を切り捨てて早急に撤退を決定した。
竜の大群の襲撃を受ける地上ルートでの退避は困難であるとの判断から、ストライカー装甲車を放棄し、地下鉄駅へと避難した。
……それが、大きな過ちの始まりだった。
地下に巣食う異世界の巨大蚯蚓の襲撃に遭い、恐慌状態に陥った部隊は、重量の嵩む装備を放棄して駅の奥へと逃走した。
その際に、何人かの隊員が勇敢にもその場に残り、仲間や民間人を逃がす為の時間を少しでも稼ぐべく、地下鉄半蔵門線への改札口に繋がる防火扉を封鎖して、自ら犠牲となった。
それを見て良心の呵責に駆られたブラヴォー小隊長の星乃弓子中尉、および彼女に付き従う数名の有志も、逃げ惑う民間人の避難誘導を行う為、地下鉄半蔵門線のホームで駅員と共に残留することを選んだ。
そうして、左崎を含む残りのWASP隊員たちは、東京駅を目指して地下鉄のトンネルの暗闇の中を走ったが、そこでさらに恐ろしい敵に遭遇することになった。
奴らが掘った穴を『利用』する、別の怪物たちが伏在していたのだ。
隊員は一人また一人と失われていき……今や、この状態にある。
ブラヴォー副小隊長の志麻幸樹中尉は、トンネル内で怪物に襲われ行方不明となった。
アルファ副小隊長、相須梨子大尉は、左崎が襲撃を受けた時点までは生存していたが、この絶望的な現状を見る限りでは、生き残っている可能性は限りなく薄いであろう。
左崎は苦悶の表情を浮かべながら、縛られた右腕を必死で強く揺り動かした。
びくともしないと思われたが、そこで黒いツタの根元から、コンクリートの小さい破片が剥がれ落ちていった。
もしかすると、黒いツタ自体を断ち切るのは無理でも、この硬さを利用して少しずつ根元の壁を削っていけば、拘束を緩められるかもしれない。
右太腿のレッグホルスターには、初弾が装填済みのM45A1ピストルが収まっている。
右腕だけでも解放できれば、あとはこの銃を使って黒いツタを撃ち、脱出できるはずだ。
その時、大きく咳き込む男の声が聞こえた。
驚愕した左崎は、咄嗟に真向かいの壁に視線を向けた。
今まで死んでいると思っていた、磔にされたWASP隊員が、苦しそうに頭を上げている。
生存者だ。
野性的な顔立ちをした中年兵士。彼は、ブラヴォー副小隊長の志麻中尉だった。
「志麻……! お前、生きてたのか……!!」
志麻は虚ろな瞳を動かして左崎を見て、それから周囲の光景を見て、最後に自分の手足を拘束する植物を見た。
最悪の状況を悟った志麻は、汗と埃で汚れた顔を恐怖でしわくちゃにした。
「うぐ……うがぁああああああ……!! ぐわぁああああああああああああああ!!」
野獣のように叫び、気も狂わんばかりにもがき始めた。
尋常でない険相に、左崎は冷や汗をかきながら、切実に彼を宥めようとする。
「おい、落ち着け……! 敵が近くに居るかもしれないんだ……!!」
すると志麻は、ゼイゼイと荒い息を吐きながら、左崎を鋭く睨みつけ、怒号を上げる。
「俺たちは……終わりだ! 全員、死ぬんだよ! 異世界のバケモノ共に食い殺されるんだ! 全部、てめえのせいだ……! てめえが地下鉄に撤退するなんて言わなければ……!!」
左崎は、心の中で舌打ちをした。最悪の状況下で、最低の組み合わせだ。
階級こそ左崎の方が高いが、年齢と実務経験の長さは志麻の方が上だ。
年長者としてのプライドを腹の底に持っているらしい志麻は、常にどことなく見下した雰囲気の態度で左崎と接していた。
その性格を見透かしていた左崎もまた、普段から彼を嫌悪していた。
しかも今の志麻は、血が頭に上りきったパニック状態で、手が付けられない。これほど子供のように取り乱す男だとは思わなかった。
「志麻……生き残りたいなら、黙って、聞け……!」
ここで不毛な言い争いをしても、生き残ることは出来ない。
左崎は怒りを必死に堪えて顔を引きつらせながら、低い声で話しかける。
「右腕を、捻るように動かし続けろ。壁が削れてくるから、お前を縛っているツタも緩んでくるはずだ。右腕が抜けたら、ピストルを取って、ツタを撃て……。それで二人とも、脱出できる……!」
「ケッ……! てめえなんて、ここで腐って死ねば良いんだ! 星乃たちは、お前のせいで犠牲になったんだ……!」
左崎は、志麻を無言で睨みつける。
そう追及をしている志麻こそ、左崎を追い越して我先に逃げようとして、怪物に襲われたのだ。責める資格などない。
左崎は志麻を無視することにして、右腕を動かし続けることに集中した。
志麻も、口汚く文句を垂れ流しながらも、同じように黒いツタを何とか緩めようと、唾を吐き垂らしながらがむしゃらになり始めた。
「ぎぃいいいいいい……!! うぅうううううう!!」
「おい、静かにやれ……! 敵が居たらバレるぞ……!」
「うるせえ……! どうせ、どこに逃げたって殺される! 生き残れるわけがねえ! くそぉおおおおおおおおおお!!」
自分の手首の皮膚が破れるのも厭わず、志麻は叫びながら両腕を揺らしまくった。
するといきなり、彼の右腕を縛るツタの根元のコンクリートがガラッと大きく崩れた。彼の馬鹿力が、功を奏したのだ。
それを見た志麻は、ひょっとこのような顔つきで黙り込んで、緩んだツタからするりと腕を引き抜いた。
「……よし、よくやったぞ志麻……!」
左崎は周囲の様子を警戒しながら、志麻に次の指示を出す。
「ホルスターからピストルを抜いて、残りの黒いツタを撃て……。お前は、マグナムを持っているな。その威力なら、一発で断ち切れるはずだ……!」
志麻はレッグホルスターから、マグナムリサーチ社製の大型拳銃であるデザートイーグル357を乱暴に引き抜いて、後端のリアサイトを腰のベルトに引っ掛けながら、大柄なスライドをジャコッと片手で前後させた。
フレームに取り付けられたグリーンのレーザー照準器を点灯し、最も狙いやすい左腕の拘束に銃口を向ける。
「銃声が鳴ったら、間違いなく敵が寄ってくる。素早く撃て……!」
小刻みに震えながらも覚悟を決めた志麻は、デザートイーグル357の引き金を絞る。
銃口から爆音が轟いて白い炎が上がり、黒いツタが断ち切られた。
「ぐぅうううっ……!!」
志麻は顔を苦痛に歪めた。
銃口を寄せすぎて、殺傷力を高めるため増量されていたマグナム弾の火薬の燃焼ガスが、彼自身の皮膚を焼いたのだ。
「その調子だ……! 早く、足の拘束も撃て……!」
志麻は血走った目で、フーッ、フーッと呼吸をしながら、右足を縛るツタに狙いを定める。
だが、今度は一向に引き金を引こうとしない。
「どうした!? 早く……」
「うるせえ! 黙ってろクソ野郎……!」
志麻は怒鳴り散らしながら、デザートイーグル357を構え直すが、その手は先程よりも顕著に震えている。
自分を撃った痛みが脳裏に焼きつき、この極限状態による恐怖や焦燥も相乗して、彼の引き金に掛けた指を凍り付かせているのだ。
暗い穴底の中で死を受け入れて自暴自棄になっていたところに、わずかな生存の可能性の糸を垂らされて、それにしがみついたことで今度は臆病になり始めたのだろう。
「……志麻、撃て……! 撃つんだ……! 撃てば、生き残れる……! ここを脱出するんだ……!!」
志麻がここで竦み続ければ、左崎の生存の目も無くなることになる。
不仲の間柄だが、他に術がない左崎は彼を必死に応援し続けた。
死が間近に迫った左崎の心の内には、深い後悔があった。
こんな現状まで追い詰められたのは、アルファ小隊の部下を一斉に失ったことから捨て鉢になって、その後も多くの仲間を見捨ててきたせいだ。
優秀な相方であった星乃と共に残るか、強引にでも連れてきていれば、ここまで最悪の窮地に陥ることはなかったかもしれない。
そもそも、当初の命令を無視し、警視庁のSATや銃器対策部隊と合流していれば、また違った展開もあったはずだ。
────『これが君たちのラストチャンスだ』
警視庁特殊部隊庁舎でSATに向かって放った自分の発言を思い出して、今さら恥じる。
この言葉が、そっくりそのまま左崎に返ってきた。
今や、この取り乱した中年兵士ひとりの踏ん切りに、命運が託されている。
唐突に、志麻の左足を縛るツタの根元の壁が崩れて緩み、彼は姿勢を大きく崩した。
その拍子にデザートイーグル357が暴発して、右足を拘束するツタごと、彼自身の足首を撃ち抜いてしまった。
「ぐぁああああああああ……!!」
拘束が解けた志麻は『床』に転がり、血が流れ出す右足を押さえてのたうち回る。
「志麻……大丈夫だ……! 傷は深くない……止血すれば助かる……!」
左崎は自分の両腕を激しく動かすが、拘束が固く、どうしてもこれ以上は緩みそうになかった。
銃声を敵に聞かれた可能性が高い今、志麻にツタを撃ってもらう以外に助かる道は無い。
「お前は、助かったんだ……! だから、立つんだ……立ってくれ……!」
志麻は呻き泣きながら、止血帯で足をきつく縛り、壁を支えにしながらよろよろと立ち上がる。
「よし……いいぞ、志麻……! 私のツタも撃ってくれ……! それで、二人とも逃げられる……!」
しかしながら、志麻はデザートイーグル357の銃口を、ゆっくりと左崎の胸に向けた。
ライムグリーン色の照準レーザーにジリジリと照らされ、左崎は驚愕する。
「ど、どういうつもりだ……!!」
「分かってんだよ……! てめえは、いざとなったら……走れない俺をバケモノの餌にして、そのまま逃げるつもりだろ……!?」
思いもしない考えを突き刺され、左崎は顔を必死で横に振るう。
「そんなわけあるか……! 二人で逃げるんだ……!」
「馬鹿言え!」
志麻は足を引きずりながら左崎に近づいて、そのホルスターからM45A1ピストルを奪い取った。
二挺のピストルを握り、二つの銃口を左崎の両目に強く押し当てながら、叫ぶ。
「てめえは……足を挫いて走れなくなった星乃を、置き去りにしていっただろうが……! トンネルを走っていた時も、後ろで部下が襲われているのに、見向きもしなかったじゃねえか……!! 皆、死んだんだ! てめえのせいだ……! いまさら改心して部下想いのリーダー気取りか……クソ食らえ……!!」
志麻は、デザートイーグル357のグリップで左崎の額を強く殴打した。
左崎は頭から血を流しながら、絶望に顔をしかめる。
これでトドメだとばかりに、志麻は吐き捨てる。
「……お前は、ここで────死ぬんだ!!」
そこで左崎は、目を見開いた。
何か、いる……!
突然、志麻の背後から大蛇のように太い植物の黒いツタが伸びてきて、その全身に絡みついた。
恐ろしい力で締め上げられ、左崎の目の前で志麻はゆっくりと持ち上げられていく。
表面に生えた硬く鋭利な鉤棘が、腕や足の肉に喰らい込み、彼は事態を理解できないまま激痛に悲鳴を上げた。
手足の服の袖が破け、棘が直に腕の皮膚へ爪を立て、ブツッと傷が開き、志麻は苦しい息を噴き出す。
その口に、太いツタが唇を裂きながら容赦なく入り込んだ。
棘によって喉、食道、その奥の臓器まで抉られ、志麻は滅茶苦茶に吼えながら血をごぼごぼと溢れさせた。
彼の手足にも、細いツタが点滴のチューブのように次々と刺さり込んでいく。
その惨劇に、左崎もたまらず恐怖に絶叫した。
血を吸ったツタはみるみるうちに赤色へと変わり、白目を剥いて痙攣する志麻の肌は干乾びた土色に変貌していく。
ミキッ、ミシッと骨の軋む音が聞こえて、彼のボディアーマーの隙間から、いくつもの赤い蕾がのたくり出てきた。
生き血を得て成長するそれはドクンと鼓動し、ゆっくりと光りながら膨らんだ。
そして最後に、燃えるような赤い光を孕んだ美しい華を咲かせた。
「し、志麻……」
志麻を殺害したツタは、その遺体を雁字搦めにしながら、『天井』に根付いていった。
彼の身体から生えた赤い花の光に照らされながら、左崎は静かにむせび泣く。
……これで、生存の道は潰えた。
カチ、カチ、という奇妙な音が近づいてくる。
左崎は、薄闇の向こうから迫りくる、その怪物を恐々と見つめた。
苔むした身体の、巨大蜘蛛。
八本の鋭い黒い脚が、カチ、カチ、と床を鳴らしている。
だがそれは、ただの蜘蛛の怪物ではなかった。
蜘蛛特有の丸い腹部の上には、人型の美しい女性の身体がついている。
黒いマントを前を留めずに羽織っており、青白い肌の豊かな胸となだらかな腹が見え、ショートカットの白い髪には蝶のような形の綺麗な髪飾りを差していた。
無表情で切れ長の漆黒の目が、左崎を見据えている。
「……こ、殺さないでくれ……!」
言葉が通じるかもしれないという一縷の望みに懸けた左崎は、ひたすら哀願する。
左崎の正面に立った蜘蛛女は、赤い光に照らされながら、白い牙が伸びた唇をフッと緩めた。
「頼む……何でもするから……助けてくれ……!」
死にたくない一心で、左崎は無様に懇願し続けた。
蜘蛛女は、黒く鋭い爪の生えた手で、左崎の頬をそっと撫でる。
そのまま何をするかと思うと、彼女は顔を近づけて長い舌を出し、左崎の汗をゆっくり舐めとった。
そして、恐怖で硬直する左崎の耳元で、蜘蛛女は優しげな声で囁いた。
「貴方は、どんな花がお好き……?」
【Breaking the habit】-【悪習からの脱却】