なろうゼミで見た悪役令嬢モノ世界の王子様がドMだった…
いつからわたしが私だったのか、それともわたくしだったのかは覚えていません。
気が付いた頃にはわたくし……クレオール公爵家令嬢、ネルリケ・クレオールは、うっかり食パン咥えて曲がり角で4tトラックとドッキングラブした私の意識を保持していたのです。
本当に気が付いたら、です。誰かに出会って思い出したとか、赤子の頃には明確な思考を保っていたとかでもありません。幸い周囲の人に理解出来ない事を話して遠巻きにされる事も異端の目で見られる事もなく、わたしはすくすくと育ちました。
わたしはわたくしとして、私であったのです。
わたしはネルリケ・クレオールであり、私風に言うなら前世の知識を持った転生者的なアレでした。けれど意識を奪われ行動を制限される事はなく、あくまでわたしはわたしだったのです。
私は、何処かの世界の知識を教えてくれました。
女性でも男性のような服装で颯爽と歩く姿、信じられないほど大きな建物がずらりと並ぶ光景。電気なる不可思議パワーで動く、機械と呼ばれるものがいつも何処にでもありました。
残念ながら、わたしにその知識を振るう事は出来ません。私は細かい絡繰を、わたしに至る時に落としてしまったようなのです。詳しく考えたり思いだそうとすると、視界が靄に包まれたように不明瞭になってしまいます。私は興味の向く事にしか、頭のリソースを割けない人間のようでした。
その中で一際鮮やかに、私に残る知識がありました。
そう。小◯家になろうの異世界転生モノです。
私はそれがとても好きで、学び舎に向かう途中や帰る最中は、必ずと言っていい程お気に入り作品の更新は無いか確認していたのです。
異世界転生モノと言っても沢山の種類があります。
穴に落ちたと思ったら異世界で魅力的な異性と関わったり魔王を倒してくれと懇願されたり前世の知識を活かして領地や国の改革を行ったりスローライフを送ったり動物やモンスターに身体が変化していたり。
その中でも私は、悪役令嬢転生が好きだったようでした。
悪役令嬢モノというのは、ヒロインを虐げる悪役の立ち位置にいる主人公が、バットエンドを回避する為に奔走する作品群の事です。
なろうでもブームを築く程に有名で、多くの作品が世に出て人気作は小説になったりコミカライズされていました。
私の中の悪役令嬢は、いつもキラキラと輝いていました。発光物という訳ではありません。定められたシナリオを前に悪戦苦闘や孤軍奮闘、抗おうと戦う姿は私の胸を熱くさせました。
私は熱心ななろう読者でした。だからこそ、わたしは気付いてしまったのです。
あ、わたし悪役令嬢だ、と。
よく考えてみれば、ヒントは何処にでも転がっていたのです。王家に並びかねない程権力有る我が家、優しくて一人娘には甘過ぎる両親、何でも言う事を聞いてくれる使用人、誕生日や特に何でも無い日でもどっさりと贈られるプレゼント。極め付けは八歳になった今日の晩餐後、父に言われた言葉です。
「可愛いネルリケ、君に相応しい男を夫としよう。
レオン・ライヴィッチ。君の婚約者の名前だ」
嬉しいかい?嬉しいかい?と体をくねくねさせる父を傍目に、わたしの頭には雷が落ちました。
レオン・ライヴィッチ。それはこの国の王太子の名前です。絵姿を見せられた事がありますが、金髪碧眼の容姿端麗、如何にも王子らしい方でした。
わたしは、王太子殿下の婚約者になってしまったのです。
部屋に戻り、鏡を見れば美少女が映っていました。銀色の髪、冷たくも見える藍色の瞳。整っていますが、整い過ぎて人形らしく見えてしまう顔です。
良くあるヒロインはピンクに茶色や金髪など、暖色や可愛い髪色と愛らしい容姿を持つ事が多そうでした。やはりわたしは、ヒロインでは無さそうです。
若い頃から王子様と婚約、権力を持つ家の娘。
間違いありません。あ、これなろうゼミで見た!という奴です。
この世界は、乙女ゲーム的なサムシングでした。
* * *
困った事に、わたしはこのゲームのシナリオを知りません。私はなろうを好んで読み耽っていましたが、乙女ゲームを買い漁りはしなかったようなのです。寧ろ普通のRPGやシューティングゲームを好んでいたようでした。わたしはこの世界がどんなゲームか、それともゲームではなく恋愛小説や漫画が舞台なのかすら分からないのです。
夜通し考えた末にわたしが選んだのは静観でした。王子の性格や他にいるかも知れない攻略対象 、ヒロインの所在を見極めなければ話は始まらないと思ったからです。
次の朝、腫れぼったくなった瞼に母は驚きましたが、しかし嬉しそうに来月王太子殿下にお会いするのよと告げました。
ネルリケちゃんに相応しいドレスを作らないとねと言い、午後には仕立て屋が来ると自由時間を潰しにかかります。
そう言えば、この家の跡継ぎはどうなるのでしょうか。わたしの他に子供はおらず、だからいつかは婿を取るのだと思っていたのですが。
「養子として、親戚から男の子を引き取る予定よ。利発で可愛い子みたい。ネルちゃんも仲良くしてあげるのよ?」
はい来たー!これはあれです。行き場がなくて引き取られた薄幸の美少年です。悪役令嬢たるわたしに虐められてヒロインに救われていちゃらぶな感じに違いありません。
頭の片隅にメモを貼り付けます。弟ポジ、要注意、要観察。
同じ屋根の下で暮らすのですから関わらないのは無理でしょうが、間違っても虐めたり蔑んだりしない方が良いでしょう。逆に可愛がり過ぎて禁断の姉弟愛……みたいな小説も私のなろうのブクマに多く在った事を思い出しましたが、そっと無視します。いつか婚約破棄したとしても今のわたしは王太子殿下の婚約者(仮)、滅多な事を考えるべきではありません。
弟が来るのは十日後だそうで、殿下にお会いするよりも早いのだと母は言いました。ネルちゃんは可愛いから殿下も一目で恋に落ちるわ!と言いますが、そんなに上手く行くならそもそも物語は始まりません。頑張りますとだけ返して、強く拳を握りました。
フリルのついた水色のドレス、色を合わせた宝石付きの靴。髪を金の飾りで纏めれば、絶世の悪役令嬢が出来上がります。
父は余りの可愛らしさにのたうち回り、すれ違う使用人は皆感嘆の声を漏らしました。母譲りのわたしの美貌は、私の記憶から検索しても二次元レベルのAPP18。どんな王子でも返り討ちにする強い意思を持って、王城の扉を通りました。
国王陛下と女王様への謁見の後に連れていかれるは中庭の東屋。威厳ある振りをしながらも手を震わせている父の咳払いを十と幾つか数えた頃でしょうか、向こうから現れたのは世にも美しい少年でした。
それは麗しい男の子でした。太陽に愛されたような金髪、エメラルドの瞳。なろうで一億回読んだ王子様系イケメンの描写を思い出す程綺麗なその子は、こちらを見て目を瞬かせました。
「初めまして……。レオン・ライヴィッチ、です」
どこか拙いその言葉、微かに赤くなった頬。目を伏せるその表情は、目上の方ながらも愛らしさを感じさせました。
「ネルリケ・クレオールと申します。お会い出来て光栄ですわ、王太子殿下」
裾を摘んで教わった通りの礼。小さく微笑めば殿下の頬は更に赤みを増し、共にいらっしゃっていた王妃様は顔を背けて肩を震わせます。席に着けば紅茶が運ばれ、お茶会とは名ばかりの顔合わせが始まりました。
当たり障りのない会話が続き、気が付けば二人で遊んでらっしゃいと殿下と二人で国の誇る庭園へ。最初は緊張しましたが、話してみれば彼はとても優しい方でした。思わず婚約破棄や悪役令嬢の事を忘れそうになる程普通の、ただの優しいテンプレ王子様な王子様でした。
「クレオールさん…嬢?は、どんな花が好きなのですか?此処には色々な種類が有りますし、是非案内させて下さい」
「ネルリケで構いませんわ、殿下。敬語もいりません。薔薇が好きですが、花の蜜を吸う蝶も好きです。アゲハとか、カラスアゲハとか……あら?あの蝶は」
見上げた視界の先、水色と黒の大きな蝶が飛んでいました。揚羽に似ていますが、透けるような空色は見た事がありません。
「あれは確か……。確か本にあったと思う、来てくれますか?」
こっちと歩き出した背中を追えば、向かう先は彼の部屋のようでした。机の上の昆虫図鑑を、馴れた手つきでめくります。
「あったこれ。……パランティカ・シータ。遠い距離を旅する蝶で、以前も来たのを見た事があるんです」
本の内容をなぞりながら生態や特徴を詳しく教えて頂きました。指先で文字を追う横顔は楽しげで、彼も虫が好きだと分かります。どんな種類の虫が一番好きか問えば、彼はカブトムシのページを指差しました。
わたしは蝶が一番好きですが、他の虫も嫌いではありません。私は半径1m以内にアリがいる事すら耐えられない極度の虫嫌いでしたが、わたしと私は別の人間です。わたしはきっと、彼と気が合うでしょう。
自宅の庭の立派なクヌギの木の話をすれば、彼の目が輝きます。城の庭園で早朝だけ姿を見せる蝶の話に、わたしの心は弾みました。
未来がどうあれ、わたしと彼は仲良くなれる。そんな確信を抱いた頃、わたし達を探していたメイドが部屋に辿り着いたようでした。
「此処にいらっしゃったんですか、殿下?いけませんよ、もう。クレオール公爵がお帰りだそうで、ネルリケ様をお探しです」
ふくよかな胸部、赤い唇。本当にメイドかと思う程色気あるその人は、腰に手を当て、叱るように殿下の名を呼びました。
子供とはいえ彼はこの国王になる人です。不敬ではと思いましたが、彼は怒りませんでした。
「あ、うん……。ごめんなさい。行こうか、ネルリケ嬢」
それどころか頬を染めて、何処か嬉しそうに答えたのです。
もしかして彼は、彼女のようなセクシーな女性が好きなのでしょうか。それか無類の女好き?
何という事でしょう。ヒロインを隣に婚約破棄を突きつける未来の彼を想像してしまい、鳥肌が立ちました。私の国は一夫一妻制だった事もあり、どうしてもハーレムの一員になる事には抵抗があるのです。幸いこの国も一夫一妻制で、夫が毎日女を取っ替え引っ替え……。なんて事はないと安心していたのに。
すぐに手紙を書くよ、だからまた来てね、と殿下に手を振って頂きましたが、ちゃんと礼が出来ていたでしょうか。仲良くなれたようで安心だよでもちょっと悲しいなぁと泣きべそをかく父を傍目に、もし彼が複数の女性を侍らせたいと願うなら潔く婚約破棄しようと決意したのでした。
あの日から、彼はまめに手紙を書いて下さいました。植物や見つけた虫の事が大半でしたが、また会いたいとも書いて頂き、良かったですねぇと使用人には自分の事のように喜ばれました。
義理の弟にも出会いました。二歳年下のその子は艶のある銀髪と青い瞳がわたしに良く似ていて、最初こそ緊張しましたがすぐに打ち解ける事が出来ました。母もこの少年が気に入ったようで、三人でテーブルを囲むお茶会は普段のそれよりずっと楽しいものでした。
いつかはどうあれ、わたしと弟は仲良くなれたと思います。このまま仲の良い姉弟として暮らしていければ良いと、心から願いました。
それから季節が一つ二つ変わった頃でしょうか。何度か城にお邪魔し、また殿下にも我が家に来て頂きました。殿下が美人に頬を染めるのは相変わらずでしたが、弟も交えて木登りや虫捕りをしたり、とても良好な関係を保てていたと思います。
彼に見せたい本があるとのお言葉を頂いて、彼の部屋で外国の昆虫図鑑を眺めていた時の事でした。用があって席を外した彼の為に栞が必要で、開けて良いと言われた引き出しを引いた時。ガコッと、変な音が響いたのです。
ガコッガコッ。引き出しを閉めようとしても上手くいかず、何かが挟まっているようです。
机の下に潜り込んで手を伸ばせば固い感触。引き出しの奥に隠されていたのは、ハイヒールでした。
女物の、赤いハイヒールです。間違っても殿下が履けるサイズではありません。思わぬ物に思考停止して立ち竦むなか、扉が開く音がしました。
「…………………あ。」
青い顔の殿下と、目が合いました。
女性に踏まれたいのだと、彼は言いました。美人に罵られて貶されて尊厳をズタズタにされた後に優しく慰めて貰ってでもその後もう一度痛めつけられたい。そんな欲求が随分と昔からあると、彼は赤くなったり青くなったりしながら言いました。
私のなろう辞書がピコーンとヒットした情報を伝えます。エム。被虐趣味。酷い事をされて気持ちよくなっちゃう性癖。彼はそれではないでしょうか。
「いけない事だって言うのは分かってるんだ……。でもつい綺麗な人を見ると目で追ってしまうし、私物に靴跡があると嬉しくなるし、こんな物まで……」
恥ずかしそうに俯く彼の手に握られているのは、真っ赤なハイヒール。何処から持って来たのか聞けば、ゴミ捨て場に落ちていたそうです。余りにも理想的な靴だったから、つい持ってきてしまったと。
わたしが言うのもあれですが、まだ八歳と言うのに将来有望すぎやしないでしょうか。
このまま発散方法も無く性癖を熟成させ続ければ、大人になる頃にはとんでもない被虐モンスターが生まれてしまいそうです。夢と希望に溢れた学園生活で出会った王子様は真性のドM!なゲームなど、大金を積まれてもやりたくありません。
そして、思い出しました。此処はなろうで読んだ世界で、わたしは悪役令嬢だと。
なろうの悪役令嬢ものに、まだ子供の悪役令嬢が攻略対象の幼少期のトラウマや事件を解決して、性格矯正を計ったり好感度を上げるものがあります。
この世界でもそれが出来るのでは?と思ったのです。
殿下は自分の中の被虐趣味と、それを隠さなければいけない立場ゆえに苦悩しています。解決するには、発散させてくれる誰かが必要なのです。彼はわたしの、大切な婚約者です。たった一人で悩む彼を、どうして捨て置く事が出来るでしょうか。
「話して頂いてありがとうございます。殿下、わたしは嬉しいのです。だってわたしも……ずっと殿下を、甚振りたいと思っていたのですから」
目を見開く彼の手を握りました。ハイヒールをそっと受け取り、瞳を覗き込みます。真性のドMには真性のドSをぶつけなければいけません。私がなろうで読んだドS達の台詞の数々が無かったら、化けの皮はすぐに剥がれてしまったでしょう。
「ずっと苦しまれていたのでしょう?認めたくないと、認められないと。大丈夫です、これからはわたしがいます。ですから殿下の全て、包み隠さず晒して下さいませんか?」
「ネルリケ嬢……?君は、」
「誰にも見せられない殿下の恥ずかしい所を、その願いを。ーーどうか、口にして下さい」
熱に浮かされた彼の碧眼に微笑むと、その顔は耳まで赤く染まります。ゆっくりと跪いて、彼は虐めて下さいと言いました。恥ずかしそうに、嬉しそうに。
こちらこそよろしくお願いしますねと答えると、はいと小さな返事。
かくして彼の欲求を満たす為、この関係は始まったのです。
SMのSはサービスのSであると私は何処かで見たようですが、全くもってその通りだと思います。
Sの側の人間がMを一方的に傷つけるのは、唯の暴力です。Mを良く見て、求めるものを与えなくてはいけないのです。
互いに強い信頼関係が有ってこそ、良いSMは築けます。SMは築くものです。信頼という土台から組み上げるのです。
痛めつけても傷つけてはいけない。わたしはそれを、彼のおかげで学びました。
最初は散々なものでした。わたしは力加減を誤り、彼も遠慮からやり過ぎと言い出せず、何度も必要以上に痛い目に合わせてしまいました。けれどゆっくりと時間をかけて、彼がどうすれば良くなれるのか、一から探っていったのです。
初めて亀甲縛りが絡まず出来た時は、二人で歓声を上げました。私の世界にあったギャグボールを再現するのに素材は何が良いか話す時など、国のこれからを話し合うより熱が入りました。殿下がコルクを思いついた際には手と手を取って深く頷き合い、完成した現物を咥えた彼を見た時、思わず涙さえ浮かべてしまいました。
彼の為に鞭を振るい、蝋燭を落とし、服の下の縄を隠して式典に出て頂きました。どうかもっと虐めて下さいと乞うて頂き、ご褒美に色々な場所を開発した事もありました。
婚約から七年も経つ頃には、わたしと彼は無二のパートナーとなりました。
わたしは彼の婚約者として、彼の欲求を満たすパートナーとして、このまま共に居たいと考えていたのです。
分不相応にもわたしが悪役令嬢であるという事を、すっかり忘れていたのです。
なろうテンプレの一つとして、貴族の子女が通う学園が有ります。王家の人間でも入学は義務であり、平民でも入学が許されているアレです。当然のようにこの国にも存在し、彼とわたしは三年間の学園生活を送る事になりました。
彼は卒業後は王位を継ぎ、わたしも婚約者から王妃になります。そうなるだろうと、当然のように思っていたのです。
最終学年である三年目、アイラ・ケーレウスという新入生と殿下が仲睦まじくしていると噂が立つようになりました。入学式に遅刻してきたのでわたしも彼女の顔を知っていましたが、桃色の髪に若草色の瞳をした、とても愛らしい少女でした。
何処かで既視感を感じて、やっと思い出しました。すっかり忘れていましたが、この世界は乙女ゲームです。アイラはヒロインで、王子で攻略対象の彼を射止めに来たのでしょう。台本通り、幸せになる為に。
それでもまだ、わたしには余裕が有りました。
彼にはあの性癖があります。ごく普通の幸福を望む女性では、彼は満足出来ないでしょう。彼が何処に鞭を受けるのが好きかも、どれ位の高さから蝋燭を受けるのが好きかも、知っているのはわたしだけです。
卒業まで残り二月程になった頃から、お互い多忙故に彼と会えない日々が続きました。もうすぐ国を継ぐのだから仕方ないと義務を果たす事に専念していましたが、殿下がアイラさんと共にいる姿を見た人がいたのです。
大変仲良さげに、何かを囁き合っていたと。
ちくりと、胸に何かが刺さりました。その場ではなんて事ないように聞き流しましたが、寮の部屋に戻ってから鞭を強く握りしめます。随分前から使っているバラ鞭は、今では擦り切れて毛羽立ちが目立ちます。それが良いのだと嬉しそうに話した彼を、疑いたく無かったのです。
それにアイラさんはこれの振り方を知らない。ならば大丈夫、そう思っていたのです。
その考えがとんでもない短慮であったと気付くのは、三日後の事でした。
満月の夜の事です。次期王妃として王城に用事があり、学校に戻るのが遅れた日の事でした。車輪と馬の蹄の音だけが響く中、音が聞こえました。
呻くような、喘ぐような。聞いた事がある気がして、思わず馬車を止めました。
反対する御者を押し切り、一人で森に踏み入ります。苦しげに、けれど何処か恍惚を乗せて呻く音。どうして心当たりがあるか分かりました。これは、SMプレイの音です。痛めつけられて興奮しきった、歓喜の悲鳴です。
どうしてこんな森の奥で、そんな事が。視界の開けた先、満月の照らす一本の木に答えは有りました。
「ほらほらほら、何勝手に気持ちよくなってるのよこのド変態! この[ピーー]が[ピーー]してる[ピーーー]野郎が!」
「申し訳ありませんアイラ様ぁ!どうかこの駄豚に仕置きを![ピーーー]して下さ、っ!ありがとうございますぶひぃ!」
そこに居たのはアイラさんと見知らぬ男性でした。信じがたい事に嫋やかな手には一本鞭。木に逆さ吊りにされた半裸の男性を、嬉々として打っています。一本鞭は音と衝撃が大きく、使いこなすには知識と経験が必要と聞きます。その鞭を、彼女はまるで手足のように扱っていました。
「汚らしい声で鳴かないで、この[検閲により削除されました]! 誰が[表示できません] して良いって言ったの?!」
「ぶひぃ!!!」
痛めつけられ赤い痕を残す彼の顔は、はっきりと興奮を映していました。アイラさんも楽しそうで、生粋の加虐趣味であると表情に出していました。
わたしはその場にいられず、足音を殺して馬車に戻りました。自室のベッドに潜り込み、声を押し殺して瞼をきつく閉じます。
アイラさんを見て分かりました。彼女は、心の底から痛めつけたがっています。僅か八歳で才能が開花していた殿下のように、彼女も生粋のドSなのです。
わたしのように邪な気持ちから足を踏み入れた人間ではなく、心底痛めつける事を愛しているのです。
殿下とアイラさんの気が合うのも当然です。本物の性癖同士、磁石のように惹かれ合うのでしょう。
どれだけ同じ時間を過ごそうが、所詮わたしは悪役令嬢なのです。ヒロインと王子様、真性のドSとドM。どうしてわたしが立入れるのてしょうか。
頬を、温かいものが伝っていました。涙だと気付いたのはシーツに染み込んでからで、その時にやっと殿下が、レオン様の事が好きだったと気がつきました。
わたしはあの人に恋をしていたのです。普段の凛々しい姿が、わたしの前でだけ見せる恥ずかしい姿が好きだったのです。
もう、届かない恋でした。
* * *
父に、どうか婚約破棄させて下さいと願いました。
本当に良いのか何度も聞き返されましたが、頷き続ければ意思の固さを悟ったのか渋々了承されます。王家との約束だから時間が掛かる、正式に決まるまで少し待っていて欲しいと言われ、深く深く頭を下げました。
母は何も言いませんでした。静かにお茶を淹れ、わたしの好きなケーキを出してくれました。
王家との繋がりを得る筈だったのに、家族に申し訳なく思う気持ちはあります。けれどどうしても、わたし以外の鞭に嬌声を上げる彼を見たくないのです。
いっそ修道院に入り、修道女として一生を過ごすのも良いかもしれません。失恋したら髪を切るという習慣が私の世界でもあったようですし、彼以外の妻になるなどとても考えられません。
余程酷い顔をしていたのか、暫くゆっくりしなさいと母は言いました。その言葉に甘えて、ただ昏々と眠り続けました。
学校に行こうと思ったのは、蒼白な顔をして弟が屋敷に押しかけたからです。制服のままわたしの腕を掴んだ彼は、震える声で学校に行こうと言いました。
「待って。人前に出られる顔じゃないし、暫く学校には行きたくないの」
「大丈夫早く行こう早くしないと俺が殿下に殺されるから可愛い弟の命を助けると思って、ね?どうせあいつは姉さんが寝癖だらけだろうが半裸だろうが気にしないし寧ろ喜ぶから」
「どういう事?どうして殿下が貴方を殺すの?喧嘩したの?」
「喧嘩?今すぐ姉さんを連れてこないなら窓を一枚ずつお前の頭でかち割ってやるって襟首掴む事を喧嘩って言うなら喧嘩だよ、王子だからなんでも許されると思いやがってあの野郎!上がああな所為で学園全体がぴりぴりしててやばいからお願い助けて!」
来てくれるまで部屋を出ないからなと使用人が引っ張っても半泣きでベッドの足に齧り付く弟に、どうやら事態は予想外の方向に進んでいると理解しました。
「分かったわ、分かったから落ち着いて。……学園に行きます、支度をして頂戴」
馬車に揺られながら聞いた話によると、婚約破棄の要望書は確かに城に届いたそうです。
「その場に居た文官によると、手紙を見た王様は頭を抱えて王妃様は天を仰いで、殿下はびりびりに破いたらしいよ。そんですぐうちに来たんだけど門前払いされて、だから俺を使ったんだって。酷くない?」
なんて不敬なと思いましたが、父ならやりそうです。うちの娘は両思いじゃない相手には嫁にやらん!と、口癖のように言っているのです。
「殿下はやりすぎだけど、絶対姉さんが勘違いしてるとこが有るから。もう一回話しあってよ、俺の頭の為にも」
お願い!と手を合わせる弟は疲れ切っているようですが、その顔に影はありません。親と引き離されて名家に連れて来られた可哀想な少年は、そこにいませんでした。
「ねぇ」
「うん?どうしたの、姉さん」
「貴方は今、幸せ?わたしが家を出る代わりに跡取りになって、大変な事も沢山あったでしょう?」
驚いたように瞬きした弟は、それから軽く笑いました。
「幸せかどうかはともかく、全然辛くないよ。義父様も義母様も優しいし、両親とは手紙でやり取りしてるし。姉さんもいたしね」
照れ臭そうに笑う言葉に、嘘があるように思えません。
彼は、連れて来られたこの家の跡取りです。連れて来られて歓迎されて、いつかこの領地を継ぐわたしの大切な弟だったのです。
馬が嘶きをあげ、学園の門を潜り抜けます。
校舎の入り口に、見慣れた姿がありました。食い入るような瞳をして、目が合った瞬間に駆け寄ってきます。
「行ってらっしゃい、姉さん。
大丈夫だと思うけど頑張って」
「行ってきます。
……連れてきてくれてありがとう、ルーク」
笑う弟に微笑み返すと、本当に穏やかな顔で彼は絶対大丈夫だよ、と言いました。
馬車を降りた瞬間に、殿下に抱きしめられました。会いたかったと小さな声。緊縛をする時と同じ距離ですが、どうしてこんなに心臓が跳ねるのでしょうか。
「ずっと逃げていて申し訳ありません、殿下。……お話ししたい事が有るのです」
一瞬震えた腕が、きつく締まります。決して逃さぬと言わんばかりに。
「話してどうするつもり?俺を捨てて、他の男の所に行こうって?上手くいく訳がない、ネルはもう、鞭を振る楽しさを知ってる癖に。……絶対に逃さない」
低い、地を這うような声でした。虚ろな目をして、わたしを見ていました。
「俺にはネルが必要だ。ネルに縛られなきゃ息が出来ないし、いつだってネルのくれた鞭の痛みで正気を保ってる。ネルじゃなきゃダメなんだ。なのにネルはそうじゃないの?」
「殿下」
「ネルが居ないと生きられない。それでも離れるなんて言うなら、もう連れていっても良いよね?地獄だろうと離れるもんか、出来るだけ惨たらしく犯ーー」
「ステイ」
言葉を発した瞬間、彼は跪きました。彼はこれを言われるのが大好きで、今も興奮を隠さずにわたしを見ています。
「一人で先走らないで頂けますか?言葉を尽くす事の大切さは殿下もご存知でしょう。それを怠ってどれ程酷い事をしてしまったか……。まさか、お忘れですか?」
わすれてない、と熱のこもった返事。声が小さいと叱れば、熱意を増して忘れてないと繰り返されます。
「まずはお詫びを。……勘違いをしていたのです。
貴方の心がわたしに向いていないと思い込んで、傷付くのが怖くて逃げ出しました。貴方の心を確かめなかったのです。……ごめんなさい」
勘違い?と彼は聞き返しました。頷けば、微かに肩の力を抜きます。
「誤解は解けた?」
「勿論。……あんな情熱的な言葉、初めて聞きました」
「もう婚約破棄しない?」
「はい。わたしで良いなら、ですが」
どうか宜しくお願いしますの言葉は、彼の胸に受け止められて消えました。再度抱きしめられて、良かったと掠れた言葉を聞きます。
「ネルが良い。ネルじゃないと駄目だ。
……ずっと好きだった。どうか俺と、結婚して下さい」
力強い声に涙が出そうで、そっと肩に顔を埋めました。
きっと最初から、この世界が乙女ゲームでも白紙のページだったとしても、何も変わらなかったのです。彼が王子様でわたしが悪役令嬢だとか、そんな事はきっと、どうでも良いのです。人が生きる限り、世界の強制力なんて何の力も持たないものでしかなくて。
わたしを好きと言ってくれる貴方と貴方が好きなわたしがいるなら、何を怖がる必要があるのでしょうか?
「……わたしも貴方が好きです。どうかこれからも、よろしくお願いします」
強くつよく、抱きしめられました。額が重なって、泣きそうな瞳がわたしを見ます。
「やっと、その言葉を貰えた」
そうして彼はほんの少し笑って。互いに目を逸らさないまま、唇が重なりました。
ヒュー!と、口笛を吹く音。次いで大きな拍手が聞こえて、寄せた身体を離しました。
囃し立てる音は校舎から。窓という窓から、学生達が彼とわたしを見ていました。悲鳴をあげる男子生徒、赤い顔で拍手する下級生、ハンカチを噛み締める女生徒。気が付けば弟もそちら側に居て、口笛を吹いたのも彼のようです。
人前でなんてはしたない事をと座り込みそうになりましたが、支える手がありました。
「あいつらめ。……移動しようか、続きはそっちで」
そう言って殿下は、わたしの手を引いて寮への道を歩きます。
「それにしても、どうして心離れしたなんて思ったの?戴冠式の準備で女遊びする暇なんて無いし、そもそも俺が興味あるのはネルだけだよ」
「それは……アイラさんと親しくしていると聞いたのです。彼女なら趣味が合うでしょうし、わたしには無いものが有りますから。お似合いだと、思ってしまったのです」
「アイラ……。成る程、でも本当に彼女とは何も無いよ、相談に乗って貰ってただけだから。丁度良い、渡したい物が有るから俺の部屋においで」
彼の机の上には、黒くて細長い箱がありました。
嬉しそうに差し出され、蓋をあけると一本の鞭。取手に蝶の刻印がされた、美しい乗馬鞭でした。
そっと握ると、驚く程手に馴染みます。重さも丁度良く、オーダーメイドではと思い至りました。
「前の奴は古くなってただろ?あれはあれで良かったけど、新しいのも良いかと思って。アイラに相談したら乗馬鞭はどうかってお勧めされたんだ。デザインまで考えてたら忙しくって。驚かせたくて黙ってたけど、今考えたらずっと一人にしてた。本当にごめん」
そう言って頭を下げる彼の肩に触れ、勢い良く抱きつきました。
「とても、とても嬉しいです。……本当に綺麗」
「良かった。打った時の感触まで考えたんだ。試してみる?」
目を合わせれば、隠しきれない熱が瞳の奥に。きっとわたしも、似た眼をしている事でしょう。
腕を解けば、ゆっくりと彼が腰を落とします。
「この素敵な鞭、叩かれたくて用意して下さったんですよね?なら、何処をどうやって打たれたいか、言葉にして願ってみせて下さい。ーーー愛していますよ、レオン様」