66 ハルモニアの婚礼衣装
婚約式の当日、ヴィクトワールは新しいドレスで鏡の前に立っていた。
一見、普通のデイドレス。
ヴィクトワールが着れば、背が小さく見える。
うれしくて鏡の前でポーズを取っていたら、母親がやってきた。
「今ならまだ間に合うわ。普通のドレスに替えたらどう? 嘘をついて婚約なんかしても、不幸になるだけよ」
何度も聞かされた小言。
ヴィクトワールはカッとなった。
「背が高い娘はフラれやすいって言ったのはお母様じゃない! おっしゃる通りだわ、ありのままのわたくしなんて、誰も嫁にもらってくれる人なんかいないわよ!」
「探し続けていればいつかいい人が見つかるでしょう? 嘘をつくのは違うわ、よくないことよ」
「そう、探し続けて、何人もの男性から『あれはちょっと』って嘲笑を浴びてこいっていうのね!? お母様にはわたくしの気持ちなんて分からないわよ!」
「ヴィクトワール……」
初めて人から聞こえよがしの悪口を言われたとき、前後の感覚がなくなって、頭がガンガン痛み、そのあとの記憶が丸ごと抜け落ちた。
流行りのとんがった帽子を買って、お気に入りで身に着けていたら、悪意なく『あなたみたい』と言われてシャッフル塔を指さされた。――帽子は捨てた。
心臓をえぐられるような苦痛だと言って、分かってくれる人はどのくらいいるだろう?
きっと、ほとんどの人が『大げさだ』『気にしなくていい』と言うに違いない。
まさにこの母親が、『気にせず明るく振る舞いなさい』と、常にヴィクトワールを叱り続けていたではないか?
笑えないヴィクトワールは、そんなにもダメな女なのだろうか?
どうして無責任な悪口を言う人たちは許されて、ヴィクトワールが泣くことは許されないのだろう?
「貴族の結婚で、隠し事をするのは珍しいことじゃないわ。背丈を誤魔化して結婚したからって、それが何だというの? もっとすごい秘密を隠している夫婦だっているわ!」
ヴィクトワールが求めているのは『背が高くない自分』だ。
夢が叶ったのだから、今更手放す気なんかない。
婚約者のジャコブは、ヴィクトワールのことを初めて『可愛い』と言ってくれた。
笑われるばかりだった自分を――『不美人』の領域に追いやられて嘲笑されていたヴィクトワールを、普通の女の子として見てくれたのは、彼が初めてだったのだ。
普通の女の子になりたい。
なれるものなら、嘘の罪で、地獄にだって落ちてやる。
――ヴィクトワールの決意は固く、親が何を言おうとも、絶対にそのドレスを脱ぐことはなかった。
婚約は無事に成立し、ヴィクトワールは幸福の絶頂にいた。
婚約者からの贈り物が日々増えていき、甘い思い出も積み重なっていく。
恋人の期間を楽しむヴィクトワールは、いつの間にか、周囲の友達にも、婚約者の話ばかりするようになっていた。
ドリアーヌは、そんなヴィクトワールを冷ややかな目で見ていた。
「ねえ、あなた、最近ちょっとはしゃぎすぎよ」
ドリアーヌが地味な顔を伏せて、言いにくそうに言う。
「わたくしたちのサロンは、モテない地味女の同盟だってこと、忘れてしまったの? あなたが自慢ばかりするから、自分との格差を感じて、悲しんでいる子が出ているわ」
ヴィクトワールは心の底から驚いた。
ヴィクトワールには自慢をしていたつもりなどなかったのだ。
ただ、幸せな気持ちを誰かに分かってほしかっただけだった。
その瞬間、ヴィクトワールは電撃のように過去のことを思い出した。
――そうだわ。確かに、かつてのわたくしも、恋人の話ばかりする人たちが許せなかった。
恋人のいる子たちを、人の気持ちが分からない無神経な子たちだと決めつけ、仲間内で笑い飛ばし、うっぷんを晴らした。
かつての彼女たちは、今の自分だ。
人の気持ちとは、なんと簡単に『見えなく』なってしまうものなのだろう。
ショックを受けるヴィクトワールに、ドリアーヌは淡々と苦言を呈する。
「それにあなた、まだ本当のことをジャコブ様にお話していないのでしょう? 結婚する前に言わないと、大変なことになるわよ。あなたが言えないのなら、わたくしが言ってあげましょうか?」
ヴィクトワールはゾッとした。
「……そのうち、わたくしから話すわ。何もしないでちょうだい……」
こんなこと知られたら、きっと嫌われる。
嫌われたくない。
ヴィクトワールは、小さな自分を愛されたいのだ。
――もう、わたくしはサロンから抜けるべきね。
ヴィクトワールは変わってしまった。サロンのメンバーとは話が合わないだろう。
自分でも気づかないうちに言い放った無神経なひと言で、メンバーたちからひどく恨まれるところを想像して、またヴィクトワールの背筋が寒くなった。
サロンのメンバーは、無神経な女にはお灸をすえる必要があると思っていて、ときどき酷い嫌がらせをしたりするのだ。
いまやヴィクトワールも、その対象になりつつあった。
――何事もなく抜けられればいいのだけれど……
何かと理由をつけてサロンに出ないのを三度繰り返したあと、事件は起こった。
ヴィクトワールの恐れていたことが起きたのだ。
サロンのメンバーのうちの一人が、相手の男性に匿名でヴィクトワールの嘘を暴露する手紙を送ってしまったのだった。
たちまちのうちに、ヴィクトワールのことは大問題になった。
***
わたしの作ったドレスは好評だった。
頼んでくれた人たちみんなが喜んでくれた。
コルセットから解放されて、以前より気絶しなくなったといって喜んでくれた人もいた。
ハイヒールのせいでできた足の爪の変形が直って、喜んでいる人もいた。
暑さや寒さの調節がしやすいドレスだから、風邪を引きにくくなったと喜んでくれた年配の方もいた。
――でも、世間の人たちみんながそのことを理解してくれたわけじゃなかった。
地下で出回っている、ゴシップ専門の雑誌に、こんなことを書かれてしまったのだ。
『現代によみがえったハルモニアの婚礼衣装』
添えられた銅版画の花嫁衣裳に、怖い顔をした蛇が何匹も絡まっている。
『……このように、巷では詐欺ドレスが流行っている。おのれを実物以上に美しく見せかけようとする女たちの心のなんと醜いことか。脱がせてみたら二目と見られぬ醜女だったという事例があとをたたず、”リヴィエール魔道具店”の名は今ではすっかり男性たちの間で恐怖の対象としてささやかれている』
……ハルモニアの婚礼衣装ってなんだろう?
とわたしが読みながら思っていたら、最後の締めくくりに少しだけ書かれていた。
『女性に永遠の美しさを与える代わりに、歴代の所有者を不幸にしたという、ハルモニアの婚礼衣装。呪われていると知っていても美しさを求める女たちには、いずれ不幸がふりかかるであろう』
どうやら神話らしかった。
そういえば、よく蛇が絡まってる女の人にそんな名前の女神がいたっけ。
わたしは神話のほとんどを、絵画でしか知らない。
よくあるゴシップだし、気にしなくていいかなぁと思ったけれど、わたし以上に、マルグリット様が怒ってくれた。
「なんて俗悪な……! そもそも、コルセットなんていう前時代の遺物をいまだに身に着けていることがおかしいのですわ! これが虚栄心から出た醜い行為だというのなら、どうぞご自分がお試しになってみればよろしいのよ!」
マルグリット様はわたしやアニエスさんがびっくりする剣幕で、お美しい唇をわなわなと震えさせながら、「許さない」とつぶやいた。
「これを書いて印刷した会社は絶対に追い詰めるわ」
「あらあらあら。楽しそうでございますね」
アニエスさんもやる気になっている。
「事実と異なることを書きたて、人心を惑わせた罪――ということで、王家からのお口添えもあるのなら、それなりの罪に問えそうですわね」
「当然」
マルグリット様、怒ってるぅ。