87.悔いる者が見る霹靂
エミリーはマリアンヌと共に、救援に来た黒騎士や聖職者に随行していた。僅かばかりの逃げ出そうという感情はもう、失意と共に消え失せている。その反面で、思考は随分と鮮明になっていた。
罪を自覚した今、罰を欲している自分も居る。償う機会を得る為に責められたいという身勝手な願いだ。それを他人に求めるのもまた、自分の弱さなのだろうとも思った。
「……ディラン様は、どうしてこんな事をしようと思ったのかな……」
ぽつりと呟いたのは、自分を利用した理由が知りたかっただけだ。
「人の心は複雑なものでしょう。根底の理由は、一つでは無いはずです。そのうちで、わたくしが知るのは一つ。……子供が、出来ませんでしたので。秘密裏に何人も妾を置いた事もあったのですよ。それでも誰一人、子を孕む事はありませんでした」
同じ女性として、妾の存在を無感情で語るマリアンヌが、エミリーには気味の悪いものにも思えた。同時にそうして自分の中にある価値観に対面して初めて、不貞を犯す事の罪も自覚する。
一夫一妻が尊ばれる国に生きて、必然的に胸の奥底に育まれる価値観がある。自分勝手な恋に酔いしれた先で、反対側に立ち害を被る側の感情なんて、考えても居なかった。そのくせ、自分がそちらに立つ事を想像したら気分が悪いのだ。そんな自分の拙さを、愚かさを、今になって思い知る。
「ジエメルドはその歴史と共に、子の生まれにくい血族でした。傍系親族は殆ど残っておりません。あの方は、誇りある血が自身を最後に途絶えるという事実が、耐え難いご様子でした……」
貴族の事情も心境も、エミリーには想像もつかない領域だ。理解できない時点で、住む世界が異なるのだろうとも思う。少し前まで貴族になる事を軽く考え浮かれていた自分が、恥ずかしいとも思った。
自分の行いを、その性質を、一つ自覚する度に、罪の意識と共に羞恥心が大きくなっていく。これからずっとこの恥辱を抱えて生きるのだろうと想像すれば、消えてしまいたいとさえ思う。
だけどそれは許されない。今のエミリーには、自分でさえ自分を許す事が出来ない。
◆◆◆
中央にそびえ立つ不死の巨大な柱が変貌したのが見えて、上級騎士達は立ち上がった。
「……おい、あれなんだ……あの先端の動き、今になって竜型に変異した……?」
「あの人たち、大丈夫なのか。いくらなんでも敵が大きすぎるだろう」
北部討伐の出征時でさえ、あれ程大型のものを相手にしてはいない。己の無力に打ちのめされていた身であっても、騎士としての矜持が心を掻き立てる。
「なぁ、相手が中型の不死魔獣なら、俺達でも加勢に……」
「止めておけ。武器も防具も無い、丸裸同然だ。自己犠牲で囮になったところで、彼らは俺達の命を、割り切って捨ててはくれないだろう。だからこそ足を引っ張る」
仲間の一人が諫めれば、誰もが俯いて唇を噛む。ロイドもそのうちの一人だった。
「……不死スライムを削り倒して終わりでは、無かったんだな……」
ロイドは表情を歪めて、今この場で唯一自分達に与えられた仕事に専念する。監視対象の拘束されたアグレアスは、まるで魂が抜けたように無表情で、目は虚ろだ。
「これは、貴方の計算のうちではないのですか?」
「残念ながら。民を失ってしまえば、王統もその価値を失うのですから。……結局、あれも人の手には余る力だったという事ですね」
問えば、アグレアスは思いのほか率直に言葉を紡いだ。
「閣下もまた、望外の力に狂ったうちの一人だったのですね」
呆れと皮肉と、自分もまた別の意味で同じ立場に居る同情でそう言えば、アグレアスは虚しく笑った。
「はは……ご存じですか? 恥辱という感情が、最も人の心を痛めつけるのだそうですよ。怒りや後悔よりも。……知らぬまま死ねた方が、まだしも幸福でしたね」
ロイドはアグレアスの自暴自棄のような言葉に吐き気すら覚える。彼を疑いもせず利用された怒りが湧く。けれども己の愚かさを棚に上げて、アグレアスを責める資格があるとも思えなかった。
そうして嫌悪感を自分に向けて、頭を掻きむしって視線を動かせば、アグレアス同様に放心しているエリオットが居る。
「エリオット……」
「……フローラは、あの男と共にあの場所に向かっただろう。無事だろうか」
うわ言のような声が返って来る。
今さら、元妻の身を案じているエリオットが、ロイドには憐れにも思えた。彼の辿った顛末を、一番近くで見てきたからだろう。そこに自覚無く追い込んだ一端は自分で、片棒を担いだのも自分だ。
エリオットもロイド自身も滑稽で、醜くて、憐れだと思った。
複数人の足音が聞こえてロイド達が振り返れば、国王や宰相を連れて、王太子アレクシスと司教パウエルが近衛兵と共に、蔦の地を歩んで来るのが見えた。拘束されているわけでも無いのに、国王はどこか捕らえられた囚人のように項垂れている。
その後ろには数人の黒騎士と共に、エミリーの姿がある。
「…………エミリー」
エリオットがぽつりと呟く。二人は互いに目が合った後で、言葉が続かないまま沈黙した。やがてどちらも気まずそうに目を逸らす。つい今朝まで二人の間にあったはずの熱が消え失せている事にロイドは気付いた。
「ロイド……聞いてくれ。俺は、たった今まで、彼女の事が頭から抜け落ちていた。今さら、フローラの事ばかり考えていた。その時、その場で、目の前に居なければ、存在が頭から抜け落ちる。それが……それが俺という人間の、本質のようだ。……最低だな」
エリオットは自嘲の混じる震える声で、まるで告解のように語る。口にする事でエリオットは自分自身を責めているのだろうと思えた。慰めの言葉は、ロイドには見つからない。
◆◆◆
国王と宰相は、項垂れたまま地に膝を突いていた。
「聖職者を民衆の保護に向かわせ、結界の負担を最小に留める為にこちらに集めました」
王太子アレクシスがそう告げる。捕らえられているアグレアスを一瞥し、それから国王に視線を向けた。
「陛下、その目で見て、知ってください。陛下が無価値と断じた、あるいは一つ誤れば戦乱に晒される未来に置かれていた、無辜の民の祈りを」
アレクシスの言葉は国王に向けられたものだが、その場に居るエリオットは、自身にも向けられた言葉のように受け止めていた。
沈黙が降りる中で、誰もが同じ一点を見ている。
闘技場の中央にそびえ立つものは、今や禍々しい恐怖の象徴のような姿をしている。それに抗うように、蔦の織り成す大地が伸びて、そこで今、戦っている者が居る。
不死の化け物に抗い戦う者が、命を落とす事が無いように、懺悔を祈りに変えた。
償いにはならない。けれどもそれが今出来るたった一つの事だ。
雲一つ無い青空の下で、空中にいくつもの小さな雷のような光が生じる。
やがて一筋の大きな光の柱が、視線の先にあった光景を貫いた。
巨大な竜の頭のように変性していた不死の塊が、形を失い崩れていく。そこには一人の男の人影があり、その手にある眩い光を放つ戦斧が、崩れ行く不死の塊に深く突き刺さっているのが見えた。
戦斧から無数の雷撃が走り、蔦の合間を駆け抜けて広がって行く。