84.数多にある、目に見えないもの
観客席に取り残された民衆はまだ多く居た。聖剣が失われた時の混乱と悲鳴に、あっという間に得体の知れない液状の化け物の恐怖が覆い被さって、彼らは絶望の中に居た。
そこに光を纏う武器を手にした元騎士団長ライオネルが率いる集団が見えた時は、暗闇に光が差すような歓声さえ上がった。
半身を不気味な泥に捕らえられて逃げる事も叶わぬ人々は、救いを願って突然現れた彼らを見守っている。
民衆のうちの幾人かは、その集団の中に居る女性の存在に気付いた。そのうちの幾人かは、その女性が、かつて自分らが詰まらない嫉妬と好奇心から、あるいは娯楽のように、深く考えもせずに悪口雑言を向けた相手だと気付いた。
民衆のそれぞれに、希望と絶望、期待と後悔の色が入り混じって息を飲み見守る中で、その集団さえ崩れた床下に消えてしまって、もう何もかも終わりだと思った後で、赤黒い不気味な泥の海を、緑の蔦がゆっくりと被い始めた。
民衆のうち、信心深い者はその蔦がアイビーであると気付いて、女神の恩寵だと語り、祈り始めた。大勢が追従し始める中で、罪を自覚した幾人かは彼女の名を呟き懺悔した。
やがて不思議な事が起こり始める。
ある青年は、護るように抱いていた古い鞄が淡く光った気がした。表面にうっすらと光の膜が出来て、その光から蔦が伸びて、青年を腰まで捕らえた赤黒い粘液に絡みついて行く。
「父さん……?」
それは今は病床にある青年の父親が、鞄職人であった頃に最後に作ってくれたものだった。
また別の場所では、年嵩の男の靴が薄く光を宿した。丁寧に磨かれた靴は、男の妻が毎日磨いてくれるものだ。大切にした良い靴は、幸運を運んでくれるのだと、彼の妻はよくそう言っていた。
ある貴族令嬢は、母から譲り受けたネックレスが。ある老人は、孫が作った手袋が。またある令息は、婚約者から贈られた刺繍入りのハンカチが。
光はまばらで、けれどもあちらこちらでその光から蔦が伸びて、不気味な不死の泥をゆっくりと覆っていく。普段は目に見えない、気付く事も無い、色々なものに宿るささやかな祝福が、そうして顕現していった。
◆◆◆
観客席からも蔦が伸びている事に気付いて、バーバラはフローラの肩に手を載せた。
「さっき言ってた、印の無いものの祝福も、上手く結べたようだね」
「……はい! 力を貸して貰えましたね!」
バーバラは満面の笑みで頷いて、それから振り返ると、ぼんやりとして表情を失くしているアグレアスを見た。
「どうだい、驚いたかい?」
答えは無い。アグレアスの傍に居た黒騎士の一人が、ふいに口を開いた。
「アグレアス閣下、貴方は、不死化を平等な力と言っていた。貴方が、聖騎士が祭り上げられる中で、日の当たらない騎士達を目に掛けていた事は知っている。貴方の本心は、強い力の裏で、貢献が蔑ろにされ、日陰になる者が居る世が許せなかったのでは……?」
「……今さら、詰まらない弁明など望みません。それはただのついでだ。それほど単純な思考で、大それた事をするほど、愚かではありませんよ」
まるで力を失ったような声音は平坦で、表情も変わらない。
「ですが……、私自身もまた大きな力に囚われ、最も日の当たらない者の力に気付いてさえ居なかった事実は、認めなければならないのでしょうね……」
無意識に零したように、アグレアスは小さく呟いた。
「仕方の無い事さ。無事を祈る、平穏を祈る、そういう祝福は困難を遠ざける。悪い事が起きないから、何も起こっていないみたいに見えちまう。そこに祝福があるなんて、普段は気付かなくても責められやしない」
バーバラが静かに語る。アグレアスは無言のままだ。
「……大きな脅威に大勢が晒された時はね、祈る者が増えて、加護の力は高まり、掛け合わさって標の力も強くなる。脅威を退けるための祝福の恩寵が、その力の大きさのせいで人の心を狂わせるのは、哀しいことだね」
ついさっきまであれ程饒舌だった男から、返って来るのは沈黙だけだ。その後ろで、救助された上級騎士達の空気が再び沈み込む気配がして、バーバラは寂し気に小さく溜息を吐いた。
結界の淵では、傭兵の男が結界の外に足を一歩踏み出していた。
「おお! 立てるぞ! しっかりした地面があるみてぇな感じだ。……しかし、アイビーを踏みつけるのはちょっとだけ罪悪感があるな」
「案ずるな。それは脅威と戦う為に授けられた大地のようなもの。それに、踏まれて萎れるような弱いものではないさ」
司祭シドニーが諭せば、誰もが頷いて足を踏み出す。
ライオネルが屈みこんで足元の蔦を確認した。
「この蔦は、足場となり不死スライムの牽制はしてくれているが、流石に全てを滅するわけでは無さそうだな」
「この先は俺達と、ギルバートの出番だな!」
「足場の為にこの辺りは後回しで、まずはあれからだ」
そう言って立ち上がり見つめる先には、赤黒い巨大な塔を成すように集まる不死スライムの集合体がある。蔦は既にそこまで伸びて、登るように絡みつき始めている。その姿は、蔦に覆われた大樹のように見えた。
「よーし、ついに我が村の新人木こりの出番じゃな!」
ドルフが楽しそうに言えば、ギルバートが真顔で首だけドルフに向けた。
「爺さん……新人木こりってまさか、俺の事か……?」
「他に誰がおる。さあ、さっさと向かって、あれを根本から切り倒してやろう」
フローラとギルバートは顔を見合わせて、困ったように笑った。それから仲間達と共に蔦の成す大地を歩み前へと進む。