中臣鎌足(藤原鎌足)は扶余豊璋じゃない!!a
「中臣鎌足は扶余豊璋じゃない!!」
とか書くと、古代の歴史に詳しい方からは「えっ? この人何言ってるの……」と思われてしまうと思う。分かりやすい様に近現代史で例えれば「三菱財閥創始者、岩崎弥太郎は坂本龍馬じゃない!」みたいな文章になっていると思う。
つまりこれを逆に言えば、「暗殺されたとされる坂本龍馬だが、実は生きていて後半生を岩崎弥太郎として生きたのである!」みたいな事を書く人がいて、同じニュアンスで、「藤原氏の祖となる中臣鎌足は、実は行方不明になったとされる百済王子・扶余豊璋の後半生である!」みたいな事を本気で(?)堂々と書く人が実際に多くいるんです。
もしかしたらウケると思って書いているだけかも知れませんが……でも例えばそういう人の中には、違う本では「天皇は任那日本府から来た!」とか書いてたりするので、ただ単にとにかく何が何でも朝鮮半島が日本の始まりにしたいタイプの人なだけかも知れませんが。
ちなみに任那の名前の由来はどこまで事実かは不明ですが、日本側からはツヌガアラシトが来朝して帰国する際に記念に第10代崇神天皇の諱の一部を国名にする様にと命じたという日本書記の記述がある様で、日本側からは任那から天皇が来たなんて認識は一切無い訳です。ミマキ・イリヒコという名前を「任那から大和に入った王」という意味だっ! なんて言い張っている人が多いのですが、そんな伝説は当の大和に全然ありません。そもそも朝鮮側にもそんな伝説は無いんです。
話を元に戻して扶余豊璋ってどんな人かと言えば、元百済王子である豊璋は、日本への人質として来朝して日本人の妻を貰い暮らしていたが、唐新羅連合軍が百済を滅ぼした後に亡命王子として百済復興に担ぎ出され、30年ぶりに帰国し百済在地の有能な将軍鬼室福信と合流するも、何かが気に入らなかった様で重要人物である鬼室福信を殺害してしまうのです。それでその後起こった有名な日本対唐新羅連合軍の戦い・白村江の戦いの敗北の原因の一つを作ったとされ、その後は新羅に連行されて死亡したとも行方不明ともされる……という人物。
資治通鑑・中国北宋 連行
新唐書・唐代 行方不明
と、中国側から連行と行方不明となっている事から、連行されたのち死亡か行方不明で確定で、日本に来た可能性は限りなく低いと思われます。
とにかくこんなちょっと残念な人が蘇我氏を討つ大化の改新(乙巳の変)の発案者で、その後朝廷を牛耳って行く藤原氏の祖だと言っちゃってる訳です。
続く。