「お前とは身分が違う」と言われた平民令嬢、実は捨てられた王女でした
それは、春の風が心地よくなってきた季節のことだった。
「悪いな、リュシア。俺と別れてくれ」
リュシアは、恋人のユリウスからそう告げられていた。
「……え?」
聞き返したのは、自分でも分からないくらい小さな声だった。
なにを言われたのか、リュシアにはすぐには理解できない。
「それって、冗談……じゃ、ないのよね?」
「冗談でこんな話するかよ」
「わ、私……! なにか、ユリウスに悪いことをした? 直してほしいところがあるなら、頑張って直すから──」
「悪いことはしてねえよ。だが、お前とは身分が違うからだ」
リュシアの言葉を遮って、オスカーが彼女をそう突き放した。
(ああ……)
彼の言葉に、胸の奥がずしんと沈んだ。
でも、心のどこかで「やっぱり」と思う自分もいた。
──彼女の恋人、ユリウス・ヘルムートは子爵家の令息だ。
政治に明るく、若くして国務院への出仕も決まっている将来有望な青年。
最近ではヘルムート家が独自にやっている商売も上手くいき、飛ぶ鳥落とす勢いだという。
そういったことから、ユリウスは若手貴族の間でも一目置かれている存在であった。
一方のリュシアは平民だった。
彼女のラヴェル家はごくごく普通の一般家庭。
母はリュシアが幼い頃に亡くなってしまったが、生活に不満を感じたことは一切なかった。
そんなリュシアとユリウスが出会ったのは一年前。
それはユリウスが書簡の配達で、父が働いている商店を訪れた時がきっかけだった。
たまたまそこにリュシアは、ユリウスと言葉を交わす機会があった。
話しやすく、素直で真面目なリュシアにユリウスは次第に興味を持ち、周囲の反対を押し切って交際を申し込んだ。
最初はリュシアにとって、夢のようだった。
平民と貴族という壁を越えた恋──リュシアはまるで、自分が御伽話の中のお姫様になったみたいと思っていた。
だが、ユリウスとの交際がスタートしても、リュシアは決して驕ることはなかった。
ユリウスの隣に並ぶには恥ずかしくないようにと、読み書きや礼儀作法、舞踏や茶の淹れ方まで、一生懸命身につけてきた。
ドレスの選び方も、歩き方も、会話の言葉遣いも。
貴族の恋人としてふさわしくなりたい──ただ、その一心だった。
「……誰か、他にお相手が?」
「カタリナ嬢だ。あのエルドナ伯爵家のご令嬢。向こうから話があった。断れるわけねえよな」
そう言って、ユリウスは肩をすくめた。
伯爵家。確かに、子爵家よりは格上だ。
それどころか今後の政略においても、ヘルムート家には好条件すぎる相手。
(ユリウスが平民の私じゃなくて、カタリナ嬢を選ぶのも仕方がないよね……)
理屈は分かる。理屈だけなら。
「そう……おめでとうございます」
口が勝手に動いていた。
本当は祝福なんてしたくない。
ただ、そう言えば穏便に済むような気がしただけ。
「ですが、ダメを承知でお聞きします。どうにもならないのですか?」
「ああ」
そう答えるユリウスには、迷いがなかった。
「お前が努力してたのは、知ってる。平民だけど、必死に俺と釣り合うように頑張ってたんだろ? でも、それでもお前は平民っていう現実は、消えねえんだよ。身分の差ってのは変えられない」
その言葉が、決定的だった。
すがりたい気持ちを抱えながら、リュシアはぎゅっと拳を握って我慢した。
「お前は賢い女だ。きっとすぐ、もっといい人を見つけられるさ」
なにを無責任なことを。
そう思うが、リュシアは自分の感情を押し殺して、静かに頭を下げた。
「今まで、本当にありがとうございました」
足元が少しふらついたが、なんとか背筋を伸ばしてその場を離れた。
期待はしていなかったが、ユリウスは最後までリュシアを引き止めなかった。
リュシアは自宅に戻って、すぐに父にユリウスとの一件を報告した。
父は優しく慰めてくれたが、リュシアの心が晴れることはなかった。
翌日から、リュシアとユリウスの噂は瞬く間に広がった。
周囲の視線は冷たく、皆は口々にこう言った。
『やっぱり平民じゃ無理だったのよ』
『あの子、どこか垢抜けなかったものね』
『一時の気の迷いだったのね、きっと』
好き勝手なことを言ってくれて、と思わないでもないが、リュシアは何も言い返せなかった。
ただ静かに、頭を下げて通り過ぎることしか出来なかった。
言葉にしようとしても、喉の奥がつかえて声にならなかったからだ。
頑張っても、足りなかった。
必死に学んでも、『出自』一つで否定されるこの世界が憎かった。
数日経っても、ユリウスのことを忘れることは出来なかった。
机の上には、縫いかけのハンカチが置いてある。
ユリウスの誕生日に、プレゼントとして渡そうと思っていたものだ。
針を手に取る気にもなれず、リュシアはそっとそれを布で覆った。
『お前とは身分が違う』
何度目を瞑っても、あの時にユリウスに告げられた言葉が、リュシアの中で繰り返される。
心にぽっかりと穴が開いたような感覚。
その穴を、どうやって埋めればいいのかも分からない。
──もう、いいかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
空を見上げる。星が静かに瞬いていた。
このまま全部、終わらせてしまえば──楽になれるのかもしれない、と。
リュシアは思い立って、家の外に出た。
夜の風が、頬を撫でていく。
気付けば、彼女は街の外れにある崖の縁に立っていた。
どうして、ここに来たのかは分からない。
だが、導かれるように歩いていたら、いつの間にかここに足を運んでいた。
少し歩けば花が咲き、野うさぎが顔を出すような、穏やかな場所。
けれど、今はただ、風の音が寂しく響くだけだった。
頭上の星たちは憎いくらいにキレイだ。
(空の上では、誰も傷つけたりしないんだろうな)
そんなことばかりを考える。
『お前とは身分が違う』
やはり、ユリウスに告げられたあの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
自分が平民だから。
努力では、どうにもならない世界だから。
(じゃあ、どうしてあの時、私に交際を申し込んだの? どうして夢を見させたの? 私は遊びの女だったの?)
そう考えると、胸の奥がきゅうと痛んだ。
涙は出ない。ただ、静かに風を感じていた。
「……ここから身を投げ出せば、楽になれるのかな」
誰に聞くでもなく、ぽつりと呟いた。
崖の下には、黒く沈んだ岩肌と、荒々しい渓流が見える。
踏み外せば、きっと一瞬で人生が終わる。
助かる可能性なんて、きっとない。
でも、足は動かなかった。
怖いわけじゃない。ただ──なにかが、引っかかっていた。
その時だった。
「そこまでにしてください。あなたは、ここで終わっていい人間ではありません」
背後から、低く響く声が聞こえた。
深く、よく通る音だった。
男の声だ。
有無を言わせぬ強さを含んでいたが、一方でどこか穏やかで、初めて聞いた気がしない声。
リュシアはゆっくりと振り返る。
──月明かりの下に立っていたのは、一人の青年だった。
漆黒のローブに身を包み、長身のその男は杖を背に携えている。
整った顔立ちにはどこか気品があり、月明かりを受けた横顔はまるで彫像のようだ。
目元には仄かな影を宿していたが、どこか懐かしさを感じるような優しさを感じた。
男は真っ直ぐにリュシアを見ていた。
まるで、彼女がここにいることを最初から分かっていたかのようだ。
「誰ですか……?」
戸惑いながら問いかけると、男はわずかに口元をほころばせた。
「名乗るのは後にしましょう。まずは、あなたをここから連れ出します」
「え……?」
混乱する頭で言葉を探すが、思考が追いつかない。
見知らぬ男に声をかけられ連れ出すと言われて、警戒しない女はいない。
「ま、待ってください。あなたは、どうして……私のことを?」
「あなたを迎えにきたのです。本来、あなたが戻るべき場所へ」
彼の声は穏やかで、それでいて一分の迷いもない。
まるで、ずっとこの瞬間のために準備していたかのように、確信に満ちていた。
「私が戻るべき場所? そんなもの、どこにも……」
ない──と、続く言葉は出なかった。
あれほど好きだったユリウスに別れを切り出され。
しかも、その理由が覆せない身分の差。
絶望し、この崖の上から身投げをして、人生を終わらせようとした。
そんな私に戻るべき場所なんてない。リュシアはそう考えたからだ。
だが。
「ある。あなたは、まだ知らないだけです」
男はすっと手を差し出してきた。
その手は、全てを優しく包み込む包容感に溢れていて、リュシアは、その手を見つめたまま動けずにいた。
足元の崖とは正反対の、確かな優しさを感じる。
温かい風が吹いた気がした。
──気付けば、リュシアはその手を取っていた。
彼の手を取れば、なにかが変わりそうな気がしたから。
それからのことは、ほとんど夢の中だったように思う。
男が軽やかに魔法の詠唱をすると、杖の先から風のような魔力を放ち、ふわりとリュシアの体を包み込んだ。
地面が浮き、視界が滲む。光と風が渦を巻き、やがて世界がすっと塗り替えられていく。
そのまま、彼の抱き抱えられる形で、リュシアは崖の縁から離れていった。
星の見える夜空は、いつの間にか別の景色へと変わっているかのように感じた。
薄明かりの中、風のように現れた男にリュシアが導かれた先は、なんと王城の中だった。
天井は高く、壁には重厚なタペストリー。
窓には絹のカーテンが揺れ、足元にはふかふかとした絨毯が敷かれている。
(夢じゃ……ないよね?)
あまりに現実離れした光景に、リュシアは言葉を失っていた。
「あ、あの……どうして、私がこんなところに……」
道中、聞けなかった言葉を、ここまで導いてくれた男に問いかけようとすると、
「きゃっ……間違いありませんわ! お顔が、先代王妃様に瓜二つ!」
「お戻りなさいませ、リュシア様!」
呟いたその声に反応したように、部屋の扉がノックもなく勢いよく開かれる。
「え……?」
驚いたリュシアが身構える前に、黒と白が入り混じった制服に身を包んだ若い女性たちが飛び込んできたのだ。
(侍女……たちかしら?)
驚きと歓喜が入り混じった空気に、リュシアは混乱するばかりだった。
「ま、待ってください。どうして、私の名前を──」
「彼女に無遠慮に近付くな」
低く抑えた声に、部屋の空気が凍る。
彼女たちはハッとしたように頭を下げ、そそくさと後ずさる。
彼はリュシアに向き直ると、落ち着いた声音で言った。
「あらためて名乗りましょう。私はオスカー・ヴァレンティア。王国直属の第一宮廷魔導士です」
「宮廷魔導士……」
宮廷魔導士とは王に直属し、王城で政務や儀式、魔物討伐などの実働も担う特別な魔導士のことだ。
強い魔力と忠誠心が求められ、その役職に就けるのは国内で三人もいないという。
(どうしてそんな偉い人が、こんな人攫いみたいな真似をしているんだろう?)
リュシアは内心、首を傾げる。
「端的に言います。リュシア……いや、第一王女リュシア・エルネストリア・グランレーヴ様。あなたは、この王国の正統な血を継ぐ者です」
その言葉の意味を、リュシアはすぐに理解できなかった。
「……王女? 私が……?」
「戸惑うのも無理はありません。そうですね……一つずつ説明していきましょう」
オスカーは頷き、部屋の隅にあった椅子に彼女を座らせる。
「始まりは、十七年前のことです。王妃アリシア様の名は聞いたことはありますか?」
「は、はい。ですが、およそ三年前に亡くなったと聞きます」
「そうです。アリシア様は──」
オスカーは静かに語り始めた。
当時、王妃アリシアは隣国エルディアの王女であり、この国の王の正妃として迎えられた。
愛し合うふたりの間に生まれたのが、第一王女リュシア。
だが、アリシアの母国との国交が突如として断絶され、第一王女リュシアは『敵国の血を引く王女』として、王家は激しく揺れた。
「混乱の中、陛下は悩み苦しんだそうです。このままでは、第一王女リュシア──つまりあなたの存在が、争いの火種になるのではと」
ありきたりな話だ。
だが、まるでお伽話を聞かされているようで、いまいち現実感がない。
「そこで陛下は苦渋の決断として、臣下たちに王女を処分せよと命じました。娘であるあなたを、です」
オスカーの声は静かだったが、言葉の重さは痛いほど胸に響いた。
目を見開いたリュシアは、手を強く握りしめる。
「しかし、王妃アリシア様は、あなたを守ろうとしたのです」
オスカーの表情に敬意が浮かぶ。
「アリシア様は王命に抗い、密かにあなたを城外へと連れ出しました。そして、かつて命を救ってくれた恩人──元薬師のラヴェル夫妻に、あなたを託したというわけです」
リュシアの胸に、ひとつの記憶が甦る。
(そういえば……)
今は亡きリュシアの母。
彼女が病に伏せたとき、リュシアの額に手を当てながら言った言葉を思い出す。
『あの方に似てきたわね……あなたは、希望を繋ぐ子よ』
今なら、あの言葉の意味が分かる気がした。
「これは、王妃アリシア様が遺した日記です」
オスカーは、ゆっくりと懐からある物を取り出した。
それは古びた革装丁の手記と、白銀に輝く小さなブローチだった。
「そこにはあなたの存在と、託した経緯がすべて綴られていました。そして、これが王女の証。王家の紋章を刻んだ唯一無二の印章でもあります」
リュシアはそっとそのブローチを手に取った。
不思議なほど、手に馴染む感覚があった。
「これは、あなたにお渡しします。しないとは思いますが……そのブローチを売れば、三代は遊んで暮らせるだけのお金を手にすることも出来るでしょう」
「そ、そんなっ! いただけません」
「いえ、もらってください。それはあなたが受け取るべきものなのですから」
リュシアはすぐにブローチを返そうとするが、オスカーは頑として受け取らない。
戸惑いながらも、リュシアはブローチをそっと胸に抱いた。
「あなたの存在は長い間、なかったことにされてきました。しかし最近、隣国エルディアとの関係も修復し、同時にアリシア様の遺品も発見されたのです」
「それが、このブローチと王妃様の日記なんですね」
「そうです。それによって、全てが明らかとなったわけです。国王陛下は、死んだと思っていた娘が生きていたと知り、とても衝撃を受けておられました。そして──」
オスカーは息をすーっと吸って、リュシアにこう告げる。
「隣国との関係が改善した以上、あなたを拒む理由はありません。正式にあなたを、王女として迎え入れることが決定したのです」
静かなオスカーの言葉が、リュシアの心の奥に届く。
ユリウスに別れを告げられ、身分の違いというものに打ちのめされた。
私は平民の子。
ユリウスとは身分が違うから、結ばれない。
でも──。
「私が……王女……」
その前提が全て崩れ去った。
今更、ユリウスとよりを戻せるとも思えないが、あまりの衝撃に椅子から崩れ落ちてしまいそうだ。
「戸惑うのも無理はありません。ですが、これは紛れもない事実。あなたは……この国の王女なのです」
その言葉に込められた力強さに、リュシアの胸が高鳴る。
まるで、失われていたものをようやく手にしたような感覚だった。
「今日はもう眠るといいでしょう。明日の朝起きた時、また違う景色が君を待っているのですから」
その真摯な瞳と言葉に、リュシアは安心で包まれた。
夜が明けると同時に、リュシアは侍女たちに起こされた。
「おはようございます、リュシア様」
「朝食のお支度が整っております」
二人の若い侍女が、にこやかにリュシアへと頭を下げる。
「お、おはようございま、しゅ……っ!」
早朝ということもあり、リュシアは盛大に台詞を噛んでしまった。
「ふふっ」
だが、二人の侍女はそんなリュシアを微笑ましそうに眺めていた。
「リュシア様、そうかしこまらなくて結構なんですよ。わたくしたちは、ただの侍女。対して、あなたは王女様なのですから」
「私が……王女」
遅れて、理解が追いついてきた。
(そういえば私、王女だったんだ……よね? 十七年前に、王妃様に捨てられた……まだ実感が湧いてこないけど)
だが、慣れぬ環境に戸惑ってはいたものの、侍女たちの物腰は柔らかく、リュシアは少しずつ緊張を解くことが出来た。
侍女たちは用意された服を手際よく広げ、リュシアの髪を優しくまとめていく。
レースのついた薄布が肩に掛けられ、手足が慣れた動きで袖に通されるたび、王女らしさが装いにも表れていった。
「どうぞ、こちらへ」
その後、リュシアが連れていかれた先は、白を基調とした広々とした食堂だった。
窓からは朝の光が差し込み、銀食器がキラキラと輝いている。
用意されていた朝食は、温かなスープに焼きたてのパン、そして季節の果物が美しく盛られたプレート。
(これが王族の食事……!)
戸惑いつつも、空腹には勝てず、リュシアは手を合わせてスープを口に運ぶ。
優しい味が身体に染みわたっていく。
朝食を終えると、次は玉座の間に連れていかれた。
王の前まで来て、リュシアは立ち止まる。
「リュシア……よく、生きていてくれた」
王はゆっくりと立ち上がると、彼女の前に進み出た。
「私は、過去において取り返しのつかぬ罪を犯した。お前を手放したことを……心から詫びたい」
その目は確かに、悔恨と悲しみに揺れていた。
だがリュシアは、ほんの少し口元を緩めて言った。
「事情は、オスカーさんから伺いました。ですが、謝罪など必要ありません」
王だって、苦しかったんだろう。
我が子を処分しなければならない悲しみは、耐え難いもののはずだ。
それなのに、この弱り切った表情を見せる王に、どうして文句を言う気になれるのだろうか。
「私は、こうして生きていますから。大事なのは、これからです」
「礼を言う、リュシア。まるでアリシアの生き写しのようだ。強い子に育ってくれた」
と王は言い、さらにこう続ける。
「一週間後、リュシアのお披露目として夜会を開こうと思う。国中に、そなたが我が娘であることを知らせるためだ」
「かしこまりました」
頷くリュシア。
その目には、揺るぎない決意が宿っていた。
お披露目夜会までの一週間。
リュシアは礼儀作法や舞踏の基本を家庭教師や侍女たちから学び、王女としての振る舞いを少しずつ身に付けていった。
それは、忙しくも充実した日々だった。
そして、あっという間に夜会当日となる。
夜会が開かれる前、着替えと化粧が始まった。
十人ほどの侍女たちが手際よく動き、リュシアの髪を整え、肌に薄く紅を乗せていく。
「王城中が、リュシア様のご登場をお待ちしております」
そう言われ、ようやく実感が湧いてきた。
自分が王女として、正式に人前に出るのだ。
「さあ、ドレスを」
侍女たちが運んできたのは、深い瑠璃色の舞踏会用ドレスだった。
胸元には繊細な銀糸の刺繍が施され、スカートの裾には星を象った宝石が散りばめられている。
その美しさに、リュシア息を呑んだ。
「これを……私が?」
リュシアが恐る恐る尋ねると、侍女たちは誇らしげに頷いた。
「はい。全てリュシア様のために、仕立てられたものです」
袖を通すたび、鏡の中の自分が変わっていく。
平民の少女だった頃には想像もできなかった姿だ。
(本当に夢みたい。私、王女なんだ……)
一週間もかかって、実感が湧いてきた。
まだ盛大なドッキリじゃないかと疑う気持ちはあるものの、自分は王女なのだ。
この国を引っ張っていく立場にある。
なのに、今日の夜会で自信なさげな姿を見せてしまえば、民が心配するだろう。
スイッチを切り替えられたのは、そういうリュシアの責任感の強さからだった。
「ありがとうございます」
リュシアは小さく微笑んだ。
その微笑みに、かつての俯いていた少女の面影はない。
そして、舞踏会の会場──王城の大広間。
夜には何百もの燭台に明かりが灯され、天井のシャンデリアが宝石のように煌めいていた。
貴族たちが集うその場で、リュシアは王と共に壇上へと姿を現す。
「皆に告ぐ。我が娘、リュシア・エルネストリア・グランレーヴが、帰還した。今宵は、その祝福の宴とする」
王の声が響くと同時に、大広間にざわめきが広がった。
「まさか……本当に、アリシア様の娘が生きていたとは……」
「確かに……面差しがよく似ている……」
「いや、それ以上に……なんと美しい」
リュシアは緊張で足が震えそうになるのを、必死に堪えた。
ユリウスに言われた言葉──。
『お前とは身分が違う』
その言葉を思い出す。
(だけど今の私は王女。もう、後ろを向かない)
背筋を伸ばし、凛とした瞳で貴族たちの前に立つ。
その堂々とした佇まいに、侮っていた者たちは息を呑んだ。
「まるで、アリシア様が甦ったようだ」
「やはり血だな。アリシア様もお美しく、そして誰よりも心が強かった。平民として育てられていたようだが、心配する必要はなさそうだ」
皆の声がよく聞こえる。
(よかった。第一印象はいいみたい)
王女としての第一歩を踏み出したリュシアは、心の中で小さくガッツポーズをするのであった。
夜会も終盤に差し掛かった頃。
王女リュシアの存在は、すでにこのパーティーの話題をさらっていた。
貴族たちの視線は、皆リュシアに向けられている。
彼女が誰に微笑み、どんな所作をするのか──その一挙手一投足に注目が集まっているようだった。
(き、緊張する。王女としての振る舞いを心がけるって思ったけど……やっぱり、慣れるまでは大変みたい)
まだ夜会は終わっていないというのに、肩にどっと重りが乗っかったようで、リュシアは内心溜め息を吐いた。
だが、夜会は順調に進行している。
この調子なら、国民全員が自分を王女として受け入れてくれる日も、そう遠くはないだろう。
と──リュシアが思っていた頃。
その事件は起こった。
「リュシア?」
リュシアの名を呼ぶ青年の声。
彼女がゆっくり振り返ると、そこにはもはや懐かしさすら感じる顔があった。
「ユリウス?」
「久しぶりだな。いや……こうして会うのは、初めてかもしれないな。王女としてのお前に」
漆黒のタキシードに身を包んだユリウスは、相変わらず整った顔立ちをしていた。
鋭い灰色の瞳がリュシアを真っ直ぐに射抜いている。
(今日は私のために、国中の貴族が集まっているって聞いた。ユリウスも子爵貴族。呼ばれるのは当然か……)
そう納得こそするものの、リュシアにとってあまり会いたくない存在だった。
ユリウスと顔を合わせると、昔の嫌な思い出が蘇ってくるからだ。
「最初に聞いた時は驚いたぜ。まさか、お前が王家の血筋だったなんてな」
ユリウスは驚くほど、気軽な口調でリュシアに話しかけてくる。
「いやあ、本当に嬉しいよ。俺の見る目は、間違っていなかったということだからな」
「……それはどういう意味?」
リュシアの声は驚くほど冷たい。
だが、ユリウスはそんな彼女に気付いているのかいないのか、変わらない調子でこう続ける。
「お前と別れたあの日……俺は誤解してたんだ。お前が平民の娘で、何の価値もないと思ってしまった。でも違った。お前は王女だった。王族の血を継ぐ、立派な存在だったんだ」
そして、一歩前に踏み出す。
「だから……やり直そうぜ、リュシア。お前と俺なら、きっと上手くいく」
「…………」
リュシアは微動だにしなかった。
ただ、じっとユリウスの目を見据え、言葉を放った。
「あなたは、なにを勘違いしているのかしら」
その声音は冷たく、鋭かった。
「え……?」
リュシアにそんなことを言われると思っていなかったのか、ユリウスが虚をつかれた表情になる。
「おいおい、なんだよ、その喋り方。お前らしくな……」
「そもそも、あなたはカタリナ嬢と婚約されていたのよね?」
ユリウスが相変わらず軽口を叩こうとするが、リュシアは突き放すような口調で続ける。
「ほら、エルドナ伯爵家の」
「……! カタリナとなら、婚約を破棄する! 王女と一緒になるって言ったら、カタリナだって納得してくれるはずだ! だから、今の俺はお前しか見えていない!」
「はあ? 調子のいいことばかり言わないで」
ユリウスのことが本気で好きだった。
だから彼から別れを告げられた時、リュシアは崖の上から身投げしようとするくらいに追い詰められた。
しかし、今はなんということだろうか。
ユリウスの顔を見ても、ちっともときめかない。
今となっては、どうしてこの男のことが好きだったんだろう? と疑問を覚えるくらいだ。
「あなたが見ているのは結局、身分という肩書きだけだった。そうしてコロコロ女を乗り換えて、あなたは何者になるつもりなの?」
「リュシア、てめえ……!」
ユリウスの拳が固く結ばれる。
彼の気迫にも押されず、リュシアは声をさらに強めた。
「身分が違うんじゃなかったの? だから、私を捨てたんでしょ。それなのに、王女だと分かった途端にすり寄るなんて──そんな都合のいい話は、どこにもない!」
ユリウスの表情が引きつる。
「お、俺は……」
「王族だろうと平民だろうと、私は私。あなたが見捨てたのは、肩書きではなく、私という人間そのものだった。その事実は、今でも変わらない」
バサリ、とドレスの裾を翻して背を向けるリュシア。
「お引き取りしてちょうだい。これ以上は、時間を無駄にしたくないから」
「て、てめえ……! せっかく、俺が寄りを戻してやろうって言ってんのに、無碍にしやがって! あまり調子に乗るのもいい加減に──」
ユリウスが咄嗟に、リュシアに掴みかかろうとした。
王女としての自覚を持ち始めたリュシアではあるが、その細腕は女そのもの。
成人男性のユリウスに勝てるはずがない。
周囲の者たちもようやく異常に気付き、助けに入ろうとするが、ここからでは到底間に合わない。
(ああ……私は、やっぱりなにも変わらなかったの?)
咄嗟にリュシアが目を瞑ると──。
次の瞬間、ユリウスの足元に風が巻き起こり、不可視の力が彼の腕を跳ね返した。
「な、なんだ!?」
驚きに叫ぶユリウスの目の前に、一人の青年が現れる。
その姿は、まるで風とともに現れたかのようだった。
「その辺にしておけ、ユリウス・ヘルムート」
──宮廷魔導士のオスカーだ。
氷のように冷えた声音。
オスカーはゆっくりと片手を上げ、その手のひらに風の魔力を凝縮させていた。
「貴様は王女殿下に無礼を働いた時点で、貴族としての名誉は失われた。これ以上を望むなら、死を覚悟してもらおう」
抑え込まれた殺気を孕んだ魔力の気配に、ユリウスは腰を抜かしてしまった。
「ひ、ひえっ。お許しを……」
頭を抱えて、ユリウスは許しを乞う。
(さっきまでは、私にあんなに偉そうだったのに……調子のいい男)
彼の様変わりに、リュシアはほとほと呆れ果てた。
その間に、騎士たちがユリウスの身柄を拘束する。
「連れて行け。王女殿下に手を上げようとした。決して許すな」
「はっ!」
オスカーの指示で、騎士たちがユリウスを連行していく。
「リュ、リュシアぁ……」
その際、ユリウスから情けない声が漏れるが、リュシアがそれに答えることはなかった。
「大丈夫ですか? リュシア様」
「はい、ありがとうございました」
リュシアはオスカーに礼を言う。
「申し訳ございませんでした。遠巻きからあなたの様子には気付いていましたが、二人っきりで話させる方が、あなたも踏ん切りが付くと思いまして。それが誤りでした」
「いえいえ、謝らないでください。事実、オスカーさんの判断は間違っていないので」
実際、胸の中で燻っていたユリウスの気持ちが、今では完全に晴れていた。
もう、あの人のことを思い出すことはないだろう──とリュシアは思うのであった。
◆ ◆
夜会の翌日から、ユリウス・ヘルムートに関する噂は、社交界のあらゆる場所で囁かれるようになった。
『身分を見て、掌を返した男よ』
『平民だった彼女を捨てて、王女と知った瞬間にすり寄ったって?』
『しかも、今は伯爵令嬢と婚約中だったのに、王女とやり直したいだなんて……恥知らずね』
などなど。
誰が言い出したのかは分からない。
けれど、そのやり取りを目撃した者が数人でもいたなら、それだけで十分だった。
噂は火のついた油のように広がり、やがて王城から外の世界へと波紋を描くように伝播していく。
当然ユリウスの婚約者カタリナの父、エルドナ伯爵の耳にも、その話は届いた。
「我が娘をなんだと思っているのだ、あの男は……!」
激昂したエルドナ伯爵は、即座にユリウスとカタリナの婚約を破棄した。
さらに事態はそれだけに収まらない。
ユリウスのヘルムート家が近年、商会との取り引きを拡大しようとしていた事業は、ほとんどがエルドナ伯爵の後援によって繋がっていたものだった。
彼が手を引くや否や、各地の商人たちは一斉に態度を翻した。
『申し訳ありませんが、今回は取りやめとさせていただきます』
『今後のお取引は、慎重に検討させていただきたい』
穏やかだが、明確な断絶の意志を含んだ言葉が次々とユリウスたちのもとへ届いた。
貴族としての繋がりも同様だった。
夜会での醜態に加え、『王女を平民だと思って捨てた挙げ句、後から戻ろうとした』という愚行は、貴族としての信頼を完全に失墜させるには十分だった。
かつて彼に近づこうとしていた令嬢たちは、一様に距離を取り始める。
それどころか、彼を見かけるたびに、ひそひそと肩を寄せ合い、陰で笑い声を漏らすようになった。
ユリウスの友人たちも表面上は礼を保ちつつ、明らかに態度を変え始めた。
言葉数が少なくなり、会話を避け、彼と視線を合わせることすらしなくなる。
こうして、ユリウスは次第に王都の社交界から孤立していくこととなったのだ。
──という風の便りを、リュシアはオスカーから受け取った。
「そうですか」
午後のひと時。
紅茶を飲みながら、オスカーから聞かされた話に、リュシアはそっけなく答えた。
「気になっていなかったんですか?」
オスカーの問いかけに、リュシアは椅子の背にもたれかかりながら、ふっと微笑んだ。
「正直……あまり。だって、もう過去の男ですから」
強がりではなかった。
本当に、心の底からリュシアはそう思えていた。
むしろ、夜会で彼の本性を目の当たりにしたことで、完全に吹っ切れたと言える。
「それならよかったです」
安心したように、オスカーは頷いた。
「そんなことより……あの夜会が終わってから、ずっと気になっていることがあるんです」
「気になること?」
「あの時、オスカーさんはユリウスから私を守ってくれました」
オスカーが咄嗟に魔法を放たなければ、今頃リュシアはユリウスに傷を付けられていたのかもしれない。
「その際、酷く懐かしい気持ちがしたんです。安心したというか、懐かしいというか」
それは、オスカーと顔を合わせてから、ずっと小さく存在していた気持ちだった。
「教えてください。もしかして、崖の上であなたが声をかけてくれた時よりも前に──私たちは出会っていたのではないのですか?」
突拍子もないことであった。
だが、リュシアは確信を抱いていた。
オスカーは彼女の言葉を受けて、
「……バレたなら、仕方がありません。言いましょう」
溜め息を吐きつつ、口を開いた。
「実は、あなたが王女として迎えられるより前……生前のアリシア様からの命を受けて、宮廷の仕事をする傍ら、あなたの動向を知り、危険があれば影から守る役目を担っていました」
「……っ!」
「理由は聞かされませんでした。ですが、アリシア様から『大切な人だから』……と。そして、アリシア様が亡くなり遺物が見つかって、あなたが王女だということが発覚したというわけです」
リュシアは息を飲んだ。
(そういえば……三年前くらいから、不思議なことがあった)
たとえば犬に追いかけられていた時、突然その犬が吠えるのをやめ、怯えるようにして逃げていったことがある。
またある時は、商人に押し倒されそうになった際、不意に商人の足元に木箱が転がってきて、彼が転倒して事なきを得たこともあった。
(もしかしたら……全部、オスカーさんのおかげだったかもしれない)
偶然かもしれない。
だけど、そう考えると腑に落ちるのは確かだった。
「だったら……」
リュシアは迷いながら言葉を紡ぐ。
「どうして、今までそのことを言ってくれなかったんですか? 影ながら守ってきたのは私の正体を悟られないようにするためだったとは思いますが、今となっては隠す必要がないじゃないですか」
「それは……」
彼はほんの一瞬、躊躇いを見せ──そして、正直に打ち明けた。
「……か、陰ながら守っていたって、自分から言うのは恩着せがましすぎるではないですか。だから、言いたくなかったんです」
そう言うオスカーは、いつもの毅然とした佇まいからは程遠く、年相応の青年に見えた。
そんなオスカーらしい理由に、リュシアは思わずくすりと笑ってしまう。
「ありがとうございます。オスカーさん、今まで守ってくれて」
そうして、リュシアとオスカーはしばらく見つめ合うことになった。
(……私も、いつかは結婚するんだろうな。その時はオスカーさんみたいな人と──)
まだ、リュシアは自分の感情に気が付いていない。
だが、いつか──その恋は王女と宮廷魔導士という身分の違いを越えて、花開くことになるだろう。
それを期待させるかのように、今日もこの国には晴れ晴れとした青空が広がっていた。
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