ひなもりよわらブレインゲーム
いつもの、当たり前の日常が、ほんのわずかに歪んだとき。
あなたは、どう対処しますか?
心の準備は、できていますか?
訪問者
23時45分。
最終列車のキハ40系2両編成が、榎原駅下りホームに到着した。
山あいの、国道から少し入った場所にあるこの駅は、喧騒とはほぼ無縁で、ときには耳鳴りが聞こえてきそうなほどの、静寂な空間が保たれている。
それらと比べると、キハのエンジンは、とにかく騒々しい。
しかし、騒がしいながらも、大型ディーゼルエンジンの、このガラガラという回転音は、いきものの鼓動のようにも感じられ、心が落ち着くような気がする。
そのサウンドが、誰もいない駅構内に響きわたるのだが、それも束の間で、すぐにドアが閉まり、やがて甲高い音に変わって、列車はずしりと加速していく。
ホームの先端を過ぎ、金属が擦れ合う音が響きつつ転轍機を乗り越えて、列車は峠へ向かって「フワン」とタイフォンを鳴らす。通過した直後のスプリングポイントが、「ガッシャン」という無機質な音をたてて、信号機が自動で赤色を現示する頃には、再び駅構内に静寂が戻っていた。
列車を見送った日南森よわらは、過ぎ去った方向へ指差確認をすると、ゆっくりと駅舎へ戻っていった。
残りの業務は、鉄道電話での最終列車通過の連絡と、売上集計、そして駅構内の電源を落とすことだ。
といっても、電話は信号を送るのみ、売上も、わずか数千円しかないので大掛かりな集計もなく、それ以外にやる事といったら、ほとんどない。
今日一日、やっぱり何も変わったことなかったな、と、記憶を反芻しながら、構内の電源を落としていく。
全ての電源を落とし終わった後は、宿直室だけ、眩しい光が漏れていた。
明日は、朝一番の6時前の始発列車を迎えるから、さっさと早寝すべきなのだが、何もかも忘れてダラダラとゆっくりお風呂に入り、宿直室で時間を忘れるほどにゲームをするのが、彼女の宿直時の、何よりの楽しみだった。
特に、よわらが現在プレーしている「フェアリーダンジョン」シリーズは、そろそろ物語の佳境に入っており、早ければ今日明日中にでもクリアできそうだった。
夢中になると、ついつい時間を忘れる。
この前も、気がつけば4時前までプレーしていて、そのまま寝ると確実に寝坊してしまうので、結局、徹夜のまま始発列車を迎えてしまった。
今日はさすがにそういう訳にもいかないので、早めに切り上げよう……、このあたりで止めておこう……、と意を決していたのだが、時計の針が2時を回っても、彼女は寝る気配がない。
最初に事務室のインターフォンが鳴ったとき、彼女はてっきり、ゲームの中の効果音だと思っていた。
駅周囲には小さな集落があるが、住民には年配者が多いせいか、深夜のこの駅に人が来ることは、まずなかった。早朝だと暇つぶしのための訪問客もちらほらあるのだが、夜10時以降となると、乗客以外では、誰も来ることはなかった。
だから、こんな真夜中にインターフォンが鳴るはずがない……彼女がこの駅に来て、約1年の間に得た知識の一つが、それだった。
しかし二度目にその音が聞こえたとき、彼女は若干緊張した。なにしろ、深夜である。時計を見ると、もう2時半だ。こんな真夜中に、人が来るはずない。来るとしたら、何かの異常事態が発生したときくらいだろう。それであっても、事前に電話連絡などがあるはずだ。
幸い、駅事務室入口は二重になっているうえに、扉のすぐ側には防犯用のスイッチがある。押すと大音響で鳴り響いて、さらに最寄りの警察まで連絡が行くという念の入れようだ。警察通報のみで音の鳴らないスイッチもある。会社としても、深夜の女性当直を始めるだけあって、考えうる万全の対策をとってくれてはいるようだが、やはり少し、不安だ。
躊躇しながらも、よわらは事務所入口へ向かった。
テレビドアホンの室内端末には、確かに今、誰かが「ボタンを押した」という履歴が残っていて、赤く点滅していた。
一寸悩んだが、誰かが来ているならば応対しないといけないのが宿直の役割だ。
小さな液晶画面をのぞきこむ。
スーツを着た、色白の、あまり背の高くない、ひょろりとした男が映っていた。
こんな時間に、スーツ? 見たところ会社関係者でもない。もちろん警察などではないし、消防団なら制服を着てくるだろう……
「榎原駅の駅員ですが、何か御用ですか?」
よわらは、インターフォンの向こうの「来客」に対して、マイクにそう話しかけた。
「あ、はい……ちょっと困っておりまして、お力を貸していただければ……」
お力? 何のちから?
「どのようなご用件でしょうか?」
「よろしければ、直接お話しいたします……。時間も時間ですから、私も少し入口から離れますので、ドアを開けていただけると助かります」
何かのセールスマンに多い勧誘手法だ。ドアを開けて無理やり入り込んで、新聞なり薬なりの契約でも取るアレだ。
しかしここは駅だ。そういった契約は、すべて本社のみでしか結べない。
テレビドアホンの広角カメラと、事務所の窓から確認しても、どうやら訪問客は一人のようだ。複数で押し込まれたら危険だが、その心配もなさそう。不思議といえば不思議なのは、この駅には鉄道か車でしか来られないはずなのに、彼はこの近辺に車を置いている気配がない。車を置くスペースも駅周辺にしかないのだが、それが見当たらないのだ。
仕方ない。これも仕事だと思って、意を決してドアを開けた。防犯スイッチに手をかけつつ。
「ありがとうございます。……こんな時間にすみません」
一応、非常識な時間という認識は、あるようだ。もしその一言がなければ、即座にスイッチを押していたと、よわらは思う。
「で、お力とは、一体何でしょう?」
「はい、誠に申し上げにくいですし、すぐに理解していただけるものでは、ないのですが」
彼はよわらから約3メートルほど離れた場所で、ちょっと大きめのアタッシュケースを持って、立っている。一見、薬の勧誘っぽいイメージではある。
「医療関係の者でして」
……出た、やはり配置薬のセールスか!
「いえ、ここは駅ですから、配置薬などは不要ですが」
「あ、いえ、薬のセールスではありません……」
といって、アタッシュケースをゆっくりと路上で広げ、中からパンフレットを取り出した。
よわらは手を伸ばし、それを受け取り、ちらと目を落としてみた。
大きく、「脳」と書かれていた。
「おそらく、お読みいただければ判るとは思うのですが、……わたくしどもは、セールスではなく、むしろ貴方様から購入したいと思っておりまして」
購入したい? 何を?
あ、もしかして。ニュースで見たことがある、最近流行りの、「押し買い」?
お金持ちの家に上がり込んで、宝飾品や純金製品を安く買い叩き、売りしぶる人の場合はずっと家に居座るという、あの押し買い?
「えー、……でも、ここ駅ですから、売るものなんて、何もないですよ」
……はっ、とよわらは気づいた。もしかして、きっぷなどを買い集めている、コレクター? あるいはマニア?
「ええっと、そういう物品を購入するものでも、ないんですよ」
パンフレットに書いてあるのだろうけど、暗くてよく見えない。デカデカと「脳」とあるのが見えるのは、さきほどと変わらない。
「では……概要だけお話ししますね」
セールス氏は、続けた。
「売って欲しいのは、貴方の頭の中にある、『脳細胞』なんです」
異世界
脳細胞……? 何言ってんのこの人、頭、大丈夫?
よわらは、いぶかしんだ。
それもそうだ。
こんな深夜にやってきて、「あなたの脳細胞売ってくれ」などと言う人なんて、中二病真っ最中の、異世界へイっちゃってる人くらいだ。よわらの頭の中に、ああ、やっかいなのを相手にしてしまったな……という後悔の念が過ぎっていった。
「あの、そういうの大丈夫なんで……。もう夜も遅いですから、お引き取りいただければと思います」
よわらがそう断ると、セールス氏も返す。
「もちろん、すぐに理解していただけないのは、分かっておりますし、常識的に考えて、あり得ない話だと思われるのは、仕方のないことなんですよ。
正直に言います。私は23世紀の未来から来ています。今の時代の人間ではありません」
ああ……これは本格的なやつだ、と、よわらは思った。どうしよう、警察に連絡して保護してもらうべきか。といっても、この時間にあまり事を荒立てたくない。さっさとお引き取りいただき、自宅でゆっくり寝て、また明日病院にでも行ってほしいな、と願う。
「ちょっと……そういうのは充分ですので、もう、お帰りになった方がいいかと思います」
やんわりとよわらが断ると、なおも食い下がる。
「では、こちらをご覧ください」
アタッシュケースの中敷を取り外す。そこには、札束が見える。
しかも、何十万という単位ではない。恐らく数百万円は入っている。
「私は、この時代の方から、健康な脳細胞を購入するために、23世紀から来ています。現在の通貨も用意し、時間を超えて買いにきているのです。……話だけでも、聞いてみませんか?」
お金に釣られたわけではない、いや、釣られたのかもしれないけれども、よわらにはあの札束がどうにも気になった。とりあえず、警察への連絡スイッチは押して、彼を事務室へ招き入れることにした。
どちらにしても、深夜・異常発言・大金と揃えば、警察のお世話が必要であろう。
「ありがとうございます。聞いていただけるだけでも助かります」
よわらは、とりあえず来客用のソファーを案内し、冷蔵庫からペットボトルの、やはり来客用のお茶を出した。
事務所内の明るい照明のおかげで、パンフレットはよく見える。その内容と、彼の話をまとめると、次のような事であった。
・彼らは23世紀の未来から、タイムマシーンで各時代へ移動している。
・各時代から、健康な人(少なくとも30代以下の人)の脳細胞を買い付けている。
・脳細胞は、手術して取り出すなどの野蛮な方法ではなく、いわゆる空間物質転送機のような機器を使い、無痛で、あっという間に保管容器へ転送する。
・脳細胞1個あたり1円で買い取る。つまり10万個の脳細胞で10万円。
・人間の脳細胞は、約140億個ある。しかし実際に使用しているのはそのうち5%程度で、それ以外の脳細胞は眠っているか、せいぜい栄養や信号の伝達に使われる程度。それを取り出し、別の場所で有効活用する。
・脳細胞を取り出した人は、術後の生活は全く支障がない。そして取り出した細胞は、深刻な脳の病気を持つ人へ、移植する。
・23世紀になると、脳細胞を収集できる健康な若い人の数が減少している。その関係で、世界的に脳細胞移植を規制する条約ができ、自由な活動がやりにくくなっている。
・仕方ないので、同時期に開発されたタイムマシーンを使用し、各時代へ移動し、収集している。
・近年、アルツハイマーなどのように、脳細胞が死滅してスカスカになり、認知症などに陥る病気もあるが、自分たちの手術では、取り出した後の空間を神経伝達物質で満たすので、その心配もほとんどない。
・術後にトラブルが発生したときのために、相談するための通信機を設置し、十分なサポート体制をとっている。
……などである。
よわらは、頭を抱えてしまった。
話が支離滅裂でわかりづらい、というわけではない。
なんの前触れもなく、突拍子もない事を言い出されたために、よわらの理解力の範囲を超えてしまったのだ。
「まぁ、その……、そういうのは、分かりましたが、……とりあえず今日は、お引き取り願いましょうか」
そう言うのが精一杯であった。
ただ、セールス氏も、
「もちろん、一度でご理解いただけるとは思っておりません。このパンフレットと、直通の通信機を置いておきますので、もしご相談があるときには、遠慮なくご連絡ください」
といって、小型のスマートフォンのような機器を置いていった。
彼を見送り、二重扉を締める。
事務室に静寂が戻る。
付けっ放しになっている蛍光灯の、キンキンという音だけが耳鳴りのように響く。
……なにやってんだろ、私。
よわらがふっと我に返ったとき、再び、インターフォンのチャイムが鳴った。
セールス氏の忘れ物でもあったのかな? インターフォンの液晶画面を覗き込むと、警察官が二人立っていた。警察直通のスイッチを押しておいたことを、すっかり忘れていた。
「何かありましたか」
警官は心配そうに聞いてきた。しかし、さすがにさっきの事を話す気はしなかった。
23世紀の未来からの訪問客ですよ。
そんなことを言うだけで、変人確定だ。
「いえ、……たぶん、事務所の掃除をするときに、うっかりスイッチに触れてしまったんじゃないかと思うんです。……ごめんなさい、せっかく来ていただいたのですが、大丈夫です」
そう言って、帰ってもらうことにした。
……本当に、申し訳ない。
無線で「榎原駅確認、異常なし」と連絡しているのを聞き、ほっと安堵しながら、宿直室へ戻る。
よし、これでぐっすり眠るぞ。
そう思った瞬間に、三たび、チャイムが鳴った。
「まさか、さっきの警察さんが戻ってきた!?」
と思い、全く警戒せずに事務所の扉を開いた。
だが、違った。
警官ではなく、全く別の人が立っていた。
今度は初老の女性だった。
しかし間違いなく、駅周辺の住民ではない。
見たこともない人だ。
うっかり無警戒に扉を開けたことを後悔したが、しかし、目の前に立っているのが女性で、明らかに自分よりも体格が小さいのを見て、よわらは安心した。
もし何かあっても、恐らく、若い自分の方が勝てるだろう。
実はこの女性が、男ですら一捻りでうち倒すことのできる格闘家なのかもしれないが、それほどまでの格闘家が、深夜にこんな辺境の駅に来るはずもない。
「あの……、何か御用ですか?」
「さきほど『未来から来た』という変な男が来たでしょう」
ああ、……あの男か。
「ええ、来ましたね」
「あの男のことを信じてはいけません」
……いや、もちろん信じるつもりはない。
というか、信じられるはずもない。
「いえ、ちょっとおかしな言動だったので、カウンセリングを受けるよう提案はしましたが」
よわらは適当に話を合わせた。
「私は」
彼女はこちらの話を、聞いているのかそうでないのか、良くわからないけれども、とにかく、続けて喋り始めた。
「彼らの後を追って、彼らと同じ23世紀から来て、被害を防いでいる任意団体所属の者です。彼と同じ時代からここまで来ました」
……頭を抱え込んでしまった。
また23世紀かよ。
「信じるな」「変な人」だけだったら十分信じるに値するのだが、「同じ23世紀」というパワーワードのおかげで、これまたカウンセリングが必要な種類の人が現れたではないか、と思った。
何だろう今晩は? 何かトラブルがあって、神様が「気の触れる薬」でもまき散らかしたのだろうか? それとも、私がおかしなだけで、今の世の中は、実はタイムトラベルが当たり前にできる世界なのだろうか。
そう思って絶句していると、彼女は言葉をつないだ。
「お金に目をくらませて、自分の大切なものを失う。それは脳であり、身体であり、未来なんですよ」
演説するように彼女は続ける。
「23世紀の世界で、脳細胞を買い集める彼らが跋扈した結果、健康な人の被害が相次いだのです。そこで私どもは条例を作り、彼らの活動を封じ込めました。しかし彼らは時代を移動し、過去に遡って脳細胞を収集するという悪行を始めました。これは確実に、私どもの未来にも影響していることなのです」
「過去の人が彼らの活動の影響を受け、若いうちに障害を負ったり、または短い生涯を閉じてしまうと、私たちの住む23世紀も、どんどん歴史が書き換えられていくのです」
「彼らが移動すると、その痕跡がタイムレコーダーに記録されます。だから、その動きを見て私ども後を追うことができるのです。しかしながら、勧誘そのものを止めることはできないし、その権利もないのです」
「だから、勧誘された人を説得するために、お伺いいたしました」
……らしい。なるほど。
と思った矢先に、鉄道電話の警報音が鳴った。一番列車が、始発駅を出た合図だ。
「えっ!?」
と思って時計を見ると、午前5時。東の空も少し白みはじめている。
「あ、あの。業務に戻りますから、とりあえずお引き取りください」
彼女は、名残惜しそうに、警告の書いたパンフレットを手渡して、闇の中へ消えていった。慌てていたからか、その消え方も、「ふっと」消えたのを、よわらは気づかなかった。
急いで着替え、身支度を整え、駅を開ける。
ああ、結局徹夜だったのか……と、前日の勤務終了後にすぐ寝なかったことを後悔していると、5時55分。一番列車が、駅に滑り込んできた。
よわらの先輩、青島なついが運転台に座っていた。
なつい先輩は窓から顔を出し、よわらを見下ろして
「よわらさん、もしかして今日も徹夜? また、ゲーム?」
と笑った。
……徹夜は、見抜かれている。
が、しかしゲームではない。
「ゲームはほとんどしてなかったんですけど、……」
と言いかけてやめた。
この列車が停車しているわずか30秒以内に、昨晩の出来事を説明できそうにもない。ニタニタとうすら笑いをしているよわらを尻目に、列車はゆっくりと加速して駅を出て行く。車内には、けだるそうな学生と、老人が数人いる程度だった。
交代
8月8日。水曜日。
夏休み真っ最中の平日は、わずかな通勤通学客が来る程度で、朝の仕事も少ない。
本当に、この邦鉄は大丈夫なのかと思いつつも、少ない来客に、窓口できっぷを売り、定期券をチェックし、列車を迎え、そして見送る。
朝3本の列車をやり過ごすと、時刻は8時。あと約1時間で、長かった当直勤務を終え、交代の時間になる。
引き継ぎも、これはというのがないから、それを記すノートもずっと空白のままだ。
今日の、よわらの次のシフトは、友人であり同期の、小林くりすだった。彼女は私と違って、とてもしっかりしているから、たぶん何があっても大丈夫、それにお昼シフトだからね、と、何となく昨晩の変な訪問客を思い浮かべながら、よわらは事務室で時間をつぶした。
駅の外は、まだ朝だというのに、眩しい日差しが照りつけている。まるで昼下がりのよう。
線路を挟んだ向かい側にある竹やぶでは、クマゼミが一斉に鳴き、長い夏を満喫している。
熱せられた線路から立ち上がる陽炎。
宇宙まで突き抜けそうなほど青い空と、何かを隠し持っているかのような入道雲。
夏だ。
よわらは夏が好きだ。
うだるような暑さもまた、生きているのを実感できるイベントだと思っている。
時々、エアコンをつけずに、窓を閉め切った部屋の中で、ただひたすら我慢する、という体験をする。
当然、部屋の温度はグングン上がってゆき、数十分たつかどうかで、ほぼ熱中症になりかけの、ふらふらになった自分がいる。
その段階で、ふっと外に出ると、あの暑い夏でも、ひんやりとしたものを感じる。
あまりおすすめできる事ではないが、夏の暑さを満喫する醍醐味が、端的に表れているエピソードだと、よわらは自分でも思っているらしい。
「お疲れさまです」
8時25分到着の下り列車に乗って、くりすが到着した。
「特に引き継ぎはないよ。……あ、……」
よわらは、あの訪問客らのことを伝えるかどうか、一瞬悩んだが、
「……いや、大丈夫。何でもない、です」
と、自分の中に言葉を閉じ込めた。
「どうしたの? 何かあったの?」
くりすは高校の時からの友人で、お互いの表情だけで「何かあった」を察することもできるのだが、同時に、あまり深入りされたくない話題の場合は、やはりお互いに、あえて突っ込まないようにしている。そういう距離感も持っている。
たぶん、言っても分かってもらえない。
むしろ、言ったら、変な人になったと思われるかもしれない。
仲のいい友人に、変な人だと思われたくない。
よわらはそう思った。
「大丈夫。また今度……休みの日にでも、ゆっくり話そ」
そう言って無難に引き継ぎを終え、徹夜した分を取り戻すため宿直室で仮眠し、10時55分の上り列車で、よわらは家へ帰った。
仮眠が浅かったのか、頭がもやもやしていて、何だかさきほどまでに起こったことの全てが、夢のようにも思えた。
家でぐっすりと眠り、食事をし、ネットなどをぼーっと眺め、夕方というよりはもう夜の帳が下りかけている19時すぎ、よわらは列車に乗った。今日もまた当直勤務である。
街の光がどんどん過ぎ去ってゆき、鉄橋を渡るゴウッという音が響くと、もう窓の外は暗闇だった。
車内は、部活帰りの学生や仕事を終えて帰る通勤客が、やはりちらほらと乗る程度だった。それでも、青島付近まではそこそこ乗っていたのだが、伊比井を過ぎると、もう、ガラガラになる。いつも見慣れた光景だが、本当に経営状態は大丈夫なのかと心配になるほどだ。
列車の左側は漆黒の世界。太平洋だ。
遠くにぽつりと明かりが見えるのは、漁船か、あるいはタンカーか。
灯台の光も侘しく回転している。
窓の下の方に見える国道には、時折、思い出したかのように車が通過する。
そんな光を目で追いかけながら、一駅、また一駅と進む。
南郷からは完全に山の中に入り、いちだんと外の景色が寂しくなる。
そんな離れた場所に、自分の勤務先があり、そこで一夜を明かすとなると、果てしなく心細くなるのだが、「これも仕事だ」と割り切るだけの気力が、まだある。
エンジンが苦しそうに唸りながら、ゆっくりと坂を登り、一息ついた場所。
そこが、榎原駅。
また、帰ってきた。
日中の勤務がまもなく終わるくりすが、出迎えてくれた。
「お疲れさまです。……引き継ぎは……、ないです!」
と笑顔で話す、くりす。
「ねぇ、今日はお客さん、来た?」
よわらは、恐る恐る聞いてみた。
「うん、来たよ? 毎日来て1時間くらい世間話していく近所のおばあちゃんと、あと配送途中の郵便局員さん。あ、電気の検針員の人も来てたっけ」
普通の訪問客ばかりである。
「あっ」
くりすの表情が変わる。
よわらも、「えっ? もしかして……」という顔になる。
「鉄道マニアの人が邦鉄グッズを買いにきたよ! 1万円分も買っていった!」
「キハじぃを3個まとめて……レアものの『急行色』も買ったの、すごいでしょ」
あ、……そっちの方か。
緊張した顔が、次第にたるんでいくのが、よわら自身よく分かった。
なるほど。彼女の話ぶりから、どうやらあの23世紀の訪問客らは来なかったようで、安堵した。
まぁ、そんなに頻繁に未来人が来られても困るし、そんなに気楽に往来できるなら、新聞やネットに「未来人、来宮」などと書かれても不思議じゃない。しかしそんなのは、見たことがない。
くりすとその後、くだらない日常のおしゃべりをし、彼女は22時15分の列車で帰っていった。
最終列車まで、あとひとつ。
こんな運行状況だったら、無理に宿直業務なんかを組まないで、終列車が終わったら自宅に帰れればと思うのだけど、実際、23時45分の終列車が出てしまったら、よわらが家へ帰る手段はない。自家用車を持っていれば帰れるのだけれど、それでも、1時間以上、夜道を一人で走るのには、不安が残る。
「この勤務形態は、会社の、せめてもの自分への愛情なんだ」などと倒錯した考えを思い浮かべながら、昨日のように終列車を見送り、業務を終え、シャワーを浴びて宿直室へ入る。
……今日は、ゲームしないで寝よう。
そう決意して着替えた頃、再びまた、あのインターフォンが、鳴った。
……まるでこちらの行動パターンを読んでいるかのように。
決意
来た。
あのセールス氏だ。
昨日と全く同じ姿で、外に立っている。
居留守を使うべきかどうか考えたけれども、さすがに当直室の明かりは外に漏れているから、不在という手段は無理筋だろう。
全く知らない相手でもないから、とりあえず大丈夫だ、と自分に言い聞かせて、扉を開く。
「いかがでしょうか? 考えていただけましたか?」
考えるも何も、昨日の今日であり、決断できるはずもない。
「いえ、その……こういうのは、お断りしておくべきだと思いまして。お引き取りいただければ」
今考え直しても、この回答が最も妥当だと、よわらは思う。
「そうですか……、では最後に、一つだけお願いがございまして」
またお願い? 彼は、いったい、どれだけお願いを持っているのだろう。
まるで、小学生が母親に、「一生のお願い」を何度もなんども繰り返すようなものだと思った。
「この機械を、頭頂部に当ててみてください」
といって、アタッシュケースの中から、ペットボトルを一回り小さくしたような機械を出してきた。
直径5ミリほどケーブルが、アタッシュケースの中の、何かと繋がっている。
なんだろう、何かの検査機械だろうか。
「頭に、当てるだけですか?」
「はい、この底面を、軽く頭のてっぺんに載せるだけです」
これで帰ってくれるなら安いもんだと思い、言われた通りに載せる。セールス氏が、アタッシュケースの中にあるボタンをピッピと二度ほど押し、
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
と言った。
何だったんだろう。
別に検査をしたわけでもなさそうだし。
機械からは、光も音も、出なかったし。
「今、サンプルとして、貴方の脳細胞を、約10万個頂戴いたしました。ですので、謝礼として、こちらに10万円を置いておきます」
えっ!!
売ったことになるの!?
「え……、でも同意して、ないです!」
思わずよわらは抗議したが、しかし、実際に頭を開けて手術したわけでも、傷ができたわけでも、何か痛みがあるわけでも、何でもない。
ただ、目の前に10万円の札束が、ポンと置かれているだけだ。
「確かに、騙したような感じになってしまったのは、謝罪します。……申し訳ございません。
しかし、我々の技術が、今のように何の苦痛もなく、そして影響もないというのを、知っていただきたかったのです」
外傷も何もないから、警察に被害届を出すにも、証拠がないし、何より相手は23世紀の人間だ。警察にも何と言えばいいのかわからない。
よわらがそう思い悩んでいると、件のセールス氏は、10万円を置いたまま、どこへともなく消えてしまった。そう、悩んでいる間に、姿が見えなくなった、という感じだ。でも姿が消える間際に、
「また、いつでも来れますので、ぜひご連絡ください」
と言ってたような気もする。
とにかく、突然のことでドキドキして、このあたりの記憶が、よわらから飛んでしまっていた。
問題は、目の前にある10万円だ。
「……偽札?」
よわらは、そう思って、1枚だけ抜き取り、じっくりと眺めた。
普段の業務での金銭授受では、手触りや、ぱっと見の印象だけで判断できるのだけれども、それは、普段、「偽札を使う人の方が、極めてまれ」という常識が前提となっているからだ。今回はむしろ、「真券の可能性が極めて低い」という前提で判断しなければならない。
集計した本日1日分の売上金額の中に、1万円札があったことを思い出す。くりすが対応したという、鉄道マニアさんが使った万札だった。
それを金庫から引っ張り出してみて、セールス氏が置いていった1万円札と比較してみる。
寸分の狂いもない。
透かしも同じ。
偽造防止の小さな文字も同じ。
もちろん手触りも同じ。
もし、これが「偽札」というのであれば、もはや、偽札とは? という概念を疑わなければならないほど、本物そっくりだ。いや本物だ。
だから、10万円については、それ以上考えないでおくことにする。
それよりも、問題は自分の体調だ。
脳細胞を10万個も取られた(はず)なのだ。
よわらは計算機を取り出して、何パーセントの細胞が消えたのかを計算してみた。……が、駅の電卓では、8桁、つまり一千万円までしか計算できない。邦鉄の売上集計には十分すぎる金額だが、細胞の数を数えるのには、若干不都合ではあった。
仕方ないので、パソコンを起動し、それに入っている電卓アプリを使う。幸いなことに、これは140億という数字でも楽に扱えた。
その結果。
脳全体の細胞の、なんと0.000007%も取られているのだ。
……いや、たったそれだけ?
たった、本当に、1%にはるかに満たない細胞を売り払うだけで、10万円。
売ったかどうかもわからないけれども、10万円。
よわらは、急に、心が弾むのを感じた。
「このお金があれば……! 好きなことして生きていけるかも!」
毎日、遅くまで仕事をする必要もないし、欲しい服やゲームなんかも買える。カフェで優雅にランチできるし海外旅行だって行ける!
仕事に関しては、半分趣味のようなものだからいいとしても、お金というのは、やはり魅力的だった。
念には念を入れて、とりあえずこのお金が「真正」なものか確認して、それからどう出るか判断しよう。まだ、わずかに疑いを持つよわらであったが、この段階で、完全に「脳細胞・売ります」派に転向してしまった。お金の力は、怖いものである。
8月9日。木曜日。
当直明けも待ち遠しく、よわらは朝を迎え、交代でやって来た後輩の新人・内海こはな、その指導のくりすに簡単な引き継ぎを行い、普段使う10時55分ではなく、1本早い9時1分の上り列車で帰ることにした。1本早めたのは、邦鉄本社へ寄って、そこで、現金集計機を使うためだった。
集計機は事務所の片隅にあって、普段は使う人も少ないのだが、イベントなどがあって売上が伸びた日などに、金銭チェックで活躍する。同時に、偽札などが混じっていないかをチェックするのにも利用できる。
各駅から売上金を本社へ清算するときにも使用するので、よわらが動かしていてもおかしくはない。ここで、さきほどの10万円が、真券なのかをチェックしようと考えたのだ。
「ちょっとこれ、使いますね!」
よわらは事務員に声をかける。事務員はいつものことのように、ただ生返事を返してくるのみだった。
しめしめ。
10万円を機械へ投入。
機械から、シャーっという音がする。
普段より、ちょっと時間がかかってる?
しかしそれは気のせいだった。
すぐに、画面に
「100000円」
と表示された。
やはり、これはほんものの、10万円だ。
よわらの口元が緩む。
警告
それから1日の休みをはさみ、1週間は日中勤務をこなした。
その間、夜勤はくりすと、もう一人の先輩がやってくれたのだけれど、どうも、あのセールス氏が来たという形跡はないようだった。
「なんか、変な人が真夜中に来たりしない?」
とカマをかけてみても、「え? 誰も来ないよ?」と真顔で返されるだけだった。
久しぶりの夜勤になり、その2日目。
そういえば昨夜は、あのセールス氏や、同じく警告女は来なかったと思い出す。
セールス氏が置いていった、未来への通信機(?)は、宿直室のよわらのロッカーの中にある。
最終列車を見送り、1日の業務が終了した段階で、そのスイッチを入れる。
セールス氏は、まるで駅の裏に隠れていたかのように、わずか数秒でインターフォンのチャイムを鳴らした。
「この前は10万個だったので、今回は20万にしてみようと思います。大丈夫ですか」
よわらはそう聞くと、セールス氏は、
「じゃあ、倍といわず、10倍にしませんか? つまり100万です。」
と話し、今度は100万円の札束を置いて、機械を頭につけた。
また何事もなく終わり、彼は姿を消し、100万円は目の前にあった。
こんな簡単な事で100万円。
よわらは、就職してから今まで、1年半働いて稼いだ「手取り」が200万円程度だったことを考えると、何とすごい金額だろう、と思った。
まずは外見が変わっていった。
普段着がしまむらやユニクロではなく、雑誌に載っているようなものになっていく。
メイク道具もワンランク上のものになる。
ネックレスなど派手めなアクセサリーも身につけるようになる。
友人らを誘ってUSJやTDRへ出かける。もちろん全額、よわら持ちで。
高校の時からの友達であるくりすから、
「よわらちゃん、……なんか最近、変わったよね」
と言われるようになった。
そう、これが、大人の女性なのよと、マウンティングするような気分だった。
食べるものも贅沢になり、痩せるためにジムに通う。
通勤のために乗る列車の待ち時間が勿体無いので、車を買う。
お金が足りなくなると、やはりセールス氏を呼び、脳細胞を売る。
それを何度も繰り返した。
……けれど、どれだけ売ったか、あまり覚えていない。
でも、いつも、たった1%未満しか売っていないし。
貯金はそもそも140億もあるんだから、大丈夫、大丈夫と言い聞かせ、その度に通信機のスイッチを押した。
少し肌寒くなった11月。
よわらは、きっぷを買いに窓口へ来た客の応対に、当たっていた。
普通の「どこ駅からどこ駅まで」というきっぷとは違って、「どこ駅から、どの線を経由して、どの場所に寄ってどこまで行き、そして帰ってくる」という内容のものだった。
入社して以降、何度か、こういったきっぷの計算をした経験がある。複雑ながらも、マニュアルや電卓と格闘すれば、きちんとした答の出る、パズルのようなものだった。
しかし、何度計算しても、出てくる金額がバラバラだった。
一度目は、経由地を忘れていた。
二度目は、出発駅からの経路を間違えていた。
三度目は、そもそもの金額計算を間違えていた。
何度やっても、正しい結論に至らなかったし、出てくる答えがバラバラで不安になったので、よわらは本社へ電話をかけ、検算してもらった。指示されて出来上がった内容を見て、なぜこんな簡単な内容がわからなかったのか? と、自分でも不思議だった。
きっぷを客に渡し、代金を受け取りながら、はっと思った。
「そういえば、最近、ゲームがクリアできてない……」
よわらは大のゲーム好きだ。新作が出ると、たいてい、標準ユーザーよりも早い段階でクリアする。しかしここのところ、クリアせずに放り投げているタイトルが増えていた。
「もしかして」
よわらはふと、「脳細胞」のことを思い浮かべた。
「……でも、まだ数パーセントのはずだし」
しかしそれは着実に、そして日々、よわらの体を蝕んでいった。
ある当直の夜。
インターフォンが鳴ったので出てみると、初老の女性が立っていた。
どこかで会ったことがあるとは思ったけれど、思い出せない。
「……その顔は……。あなた、彼らの団体に、売ってますね」
何のことか分からない。
「私が来たことも、もうお忘れですか。……仕方ありません。やっぱり、止めることができなかったのね……」
そう言って、彼女は力なく、駅を辞した。
よわらは、ただ、ぼーっと彼女を見送った。
いまだ、彼女が誰なのかを思い出せないまま。
破綻
それからのよわらの生活は、少しく破綻しかけていった。
遅刻をする。
列車の時刻を忘れる。
金額を間違える。
起きられない。
客のみならず、友達や先輩、後輩、上司の顔も忘れている。
だんだん身支度もできなくなり、見かけもおかしくなっていく。
さすがにこれはまずいと思ったのか、家族が病院へ連れていくことになった。
一通り話しを聞いた医師は、
「まずは、CTスキャンで見てみましょう」
ということで、頭部CT画像を撮ってみることにした。
そして、いくつかの問題を解くシートを提示され、それに答えていく。
そんな診察を受けた結果は、散々だった。
「まず……、言いにくいのですが……、若年性アルツハイマーなのかもしれません……。脳がほとんど機能していないようです」
よわらは、ぼーっとしながらその話を聞いていた。
それが、何を意味するのか、理解することは、もはやできなかった。
父親か母親が、「治る見込みは、ないのですか?」と聞いていたが、
「脳細胞は、死滅すると再生はできないのです」
という医師の言葉に、涙を流していた。
よわらは、その姿をただ無表情で眺めているだけだった。
とりあえず入院することになったが、入院したその後も、ベッドの上で、ひたすら外を眺めることだけしかできなかった。
時折、くりすやなつい先輩、こはなちゃんたちがお見舞いに来てくれたが、それが誰だったのか、どうにも思い出せずにいた。
ある夜、すでに他の患者が寝静まり、消灯時刻も越えたころ、寝られずにいるよわらのベッドの横で、見覚えのあるスーツ姿の男が、すっと立っていた。
よわらは何気なくその姿を眺め、しばらく考え込んで、ふっと思い出した。
「ああ……、あの、セールスの人だ……通信機、返さなくちゃ……」
そう思ってはいるが、通信機をどこに置いたのか思い出せない。
「こういう事になって、残念です。もう少しいただいても大丈夫だと思っていたのですが……。私とお会いするのも、これが最後でしょう。どうぞ、お大事に」
そう言って、やはり、すっと消えていった。
よわらは、ただ、それを眺めているだけだった。
冬が過ぎ、外が暖かくなっていく。
相変わらずよわらの日常は、朝起きて、日中の食事を摂り、夜が来たら寝るという、無為な時間を過ごすだけだった。
見舞いに来てくれる人も減った。
毎日、両親は、何かしらの報告をしてはくれるが、それがいったい何を意味しているのか、理解できなかった。
夏。
よわらの大好きな季節が巡ってきた。
記憶の奥底で、暑い夏を懐かしむことはできたが、それはいつの記憶なのか、思い出せない。
最近は、眠っている時間が長くなった。
この病室のエアコンはあまりよく効かず、暑苦しいなあと思うけれど、でも、この暑いの好きだったなあ、と、暗闇の中で遠い記憶を反芻している。
よわらは、重い眠りから覚めた。
あれから何日経ったのか、分からない。
今日は珍しく、この狭い病室に、人が溢れている。
今日は、それぞれ、誰なのか、なんとなく分かる……。
両親、くりす、なつい先輩、こはなちゃん、そして普段は家を出て寮住まいしている、妹も。
なんで、こんなに人がいるんだろう。
看護師さんやお医者さんも、慌ただしく私の周りを取り囲んでいる。
……ああ、わかった。
私、もう死んじゃうんだ。
今、たぶん、目を閉じると、このまま目が覚めることはないんだ……。
最期の最後に、彼らの顔を、心に焼き付けなきゃ。
ありがとう、みんな。
でももう、瞼を支える力がない……
そして、大勢が見守る中、よわらの視界が真っ黒になった……。
「……えっ!!」
飛び起きた。
ここどこ!?
宿直室?
心臓がドキドキしている。
時計を見た。
時刻は午前4時。
目の前にある画面に、プレー途中の「フェアリーダンジョン」が流れている。
えっ?
えっ??
何度も何度も、胸に手を当ててみる。
心臓の鼓動。体温。
そして思い出せる記憶。
友達や両親、先輩たちの顔。名前。
しばらく、夢から覚めたことに、よわらは実感がわかなかった。
夢か。夢なのか。だとすると? どこからどこまでが夢で、どこからが本物?
もしかして、全部、夢?
終幕
鉄道電話の連絡音が、「プー」と鳴る。
一番列車が、始発駅を出た合図だ。
悪夢で、鉛のように重くなった体を引きずり、着替え、身支度を整える。
5時55分。1分の狂いもなく、上り一番列車が駅構内に入ってきた。
「おっはよー! よく眠れたかい? あー、あんまり寝てないな、その顔」
なつい先輩が運転台の窓から顔を出し、よわらの顔を見て茶化した。
「はい、なんだか、1年間くらい、夢で生活してたみたい、です」
と、よわらが答えると、なつい先輩は、「はぁ?」というような表情をしつつも、
「ま、そういうこともあるよね。大丈夫大丈夫、何事も経験だよ!」
と笑った。
出発信号機が青を表示する。
先輩がマスコンハンドルを動かす。
それまで緩慢に動いていたエンジンが、緊張したかのようにゴゴゴゴっと音を立てて、騒音を巻き散らかす。
巨大な車体がゆっくりと動き出し、よわらの横にさしかかる。
先輩が窓から手をだし、「じゃ」と合図する。
よわらも手を挙げ、応える。
列車はやがて紫煙を残して構内を去り、ガシャーンと転轍機を渡って、姿を消していく。
周囲はだんだん明るくなり、それに応じてセミの鳴き声も騒がしくなっていく。
駅舎に戻る途中、よわらは、ロッカーの中に通信機があるかどうか、確認しなきゃね、と思い出して、一人でふふっと笑った。
(原作は、平成元年によろづのかるみが書いた短編小説集です。)