西風の子守歌
西から吹く風は不吉なのだというのが、婆の口癖だった。
「どんなにあたたかく、やわらかく、心地がよかったとしても。けっして心を許してはいけない」
白く濁った目で私を見据え、婆はよく言ったものだ。
「それが西風であるならば。けっして」
婆はめくらだった。
それは婆が過去に罹った流行り病の後遺症なのだと、村の人間は言った。だが婆は、真相は違うのだと私に打ち明けた。
「流行り病のせいなわけがあるもんかい。これは」
婆はふしくれてシワシワの指を目玉につっこんだ。
「西風のせいだよ」
「目玉に指をつっこんだりして、ねえ。婆、痛くはないの?」
ぐりぐりとえぐるような動きに恐怖を覚え、一方で得体の知れぬ高揚に浮かされ、私は婆にたずねた。
私の震える声を、婆は鼻で笑った。
「痛いなんて、そりゃ幸せなこったね」
「痛いのが幸せ? そんなわけないよ!」
婆の言葉に、私は思わず飛び上がった。
当時の私はずいぶんな怖がりで、臆病なこどもだった。
痛いことは、怖くて大嫌いで近寄りたくない、小さな体からあふれんばかりに抱えていた、たくさんの黒いウゾウゾのひとつだった。
「腰が痛いのや、足が痛いのや、心臓が痛いのは、わしだって幸せじゃないさ」
婆は「よっこいしょ。おお、いてて」とボヤキながら、老人らしい動作で椅子に座った。
脚の長さが左右違う椅子は婆の体重を受け、ぎいときしんだ。
「今はなんどきだい、坊や」
婆はなにかをつかみとるように、指を曲げながら手を振り回した。
その様子は悪い子がいないか、あたりをうかがって回っている魔女のように見え、ぞっとした。
口の上に影を作る大きなかぎ鼻と鋭く長い爪が、婆をいかにも魔女らしく見せていた。
「お昼は過ぎたよ」
またもや私は哀れに声を震わせて答えた。
「そりゃわかる。おまえさん、さっきに飯を食らったろう」
婆は呆れ声で言った。
「目が見えたって、太陽の居所で時刻もはかれないんじゃあ、グズでどうしようもないねぇ」
情けないのと悔しいのとで押し黙る私に構いもせず、婆はしなびた手を振り続けていた。
「わしゃ、目が見えないでも、なんどきくらいかはこの手でわかるものさ」
婆の手が止まった。
「ああ、今はそう。そうだねぇ。この手のひらには」
婆は頬をゆるめた。うっとりとした声色になる。
婆の干からびた手のひらを、窓から差し込む光がくまなく照らしていた。数えきれないシワのすべてが、光で消え去った。
「色とりどりの光の粒が舞っているんだろうね。朝露をのせて萌える緑に、花開いたばかりの淡い赤、それから躍動感あふれるおしべの黄、底まで透かして見えるよな初夏の湖……」
「そんな色、どこにもないよ」
グズとののしられたことに腹を立てていた私は、恋しくてたまらないものを歌うような、婆の語りをさえぎった。意地の悪い気持ちが腹の底からわきあがり、止められなかったのだ。
「婆はめくらだから、いい加減なことを言うけど」
ひどく婆を痛めつけるに違いない言葉をどうにかひねり出せないかと、私の若く幼い頭は懸命に回転していた。
脳みそが焦げて、ついには焼き切れてしまうのではないかと思われるくらい、私は必死に考えた。
「そんな色はどこにもない。いくら見えないからって、光にそんな色があるように作り話するだなんて。おかしいや。婆は大ウソつきだ」
言ってやった、と思った。
私は胸をはった。
どこかしらがちくりと痛み、私は知らず、胸をおさえた。
「おまえさん」
婆は長く重いためいきをついた。
「本当にどうしようもないねぇ」
ようやく婆をやりこめられたと浮かれ、一方でこの世で一番の悪事を犯してしまったとおののく気持ちのすべてが、婆の呆れ声によって粉々にくだかれた。ぱっと霧になって消え去った。
「かわいそうに。おまえさんは見えるのに、見えないんだ」
婆は光にかざしていた手をおろした。
もう片方の手で包み込む。胸の前でぎゅっと。
「だけれど、わしにももう見えない。あれほどに美しかった色とりどりは、もうなんにも。この目に映りはしない」
婆の色のない目が私に向けられた。
「西風のせいだよ」
私はその後、村を出て、国一番の音楽学校へ入学した。
興行におとずれた旅芸人が、たまたま私の川べりで隠れて歌うのを聞き、彼に音楽の道を目指すよう強く説得されたのだった。
そして私は成功した。
あちらこちらのサロンでひっぱりだこの歌手となり、ついには歌劇の大舞台にまで出演するようになった。
音楽学校へ入学する年になる前に、婆との交流は途絶えた。
そもそもがなぜ関わりを持っていたのかわからない。
同じ村の住人ではあったが、村の誰もがあまり婆とは関わらないようにしていた。私の両親も含めて。
かつて結婚していたことがあるのか。子はいるのか。
どんな経歴を持つ老人なのか、誰も知らなかった。
おそらく婆はすでに、この世から去ったことだろう。
だが婆の残した言葉は私から去らなかった。
「西風のせいだよ」
ああ。
今ならば、婆の言わんとしていたことが、よくわかる。
色とりどりの光の粒はたしかに舞っているのだ。
葉から朝露の零れ落ちる緑、花がゆるりと開いてゆく淡い赤、それからおしべの躍動感あふれる黄、初夏の湖の底へ落ちてゆく透明の青。
それらの色とりどりが光に宿り、音となって聞こえるのだ。
だが私は西から吹く、あたたかく、やわらかで、心地のよい風に、心を許すだろう。
のちにどれほど悔やむのだとしても、もはやそうするしかないのだ。
西風の歌う子守歌ほど。
ああ、これほどまでに。
ああ、ああ。
婆、あなたはどれほど後悔しただろうか。
だが、西風の子守歌は婆、あなたをどれほど。
婆、あなたの白く濁った目は、私を見据えていた。たしかに。