マトリクスゴースト//殺人事件
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──マトリクスゴースト//殺人事件
ジェーン・ドウから次の仕事の話が来た。
いつものようにTMCセクター4/2に私たちは呼び出され、喫茶店の個室に入る。
「あなた方に探偵の真似事ができると前回の仕事で分かったので、いつもとは趣向の違う仕事を持ってきましたよ」
ジェーン・ドウはそう言って話を切り出した。
「どっちがホームズで、どっちがワトソンです?」
「自分たちをホームズ扱いするとはおこがましいですね。あなた方はせいぜい浮気調査で小銭を稼ぐ無名の探偵程度ですよ」
「はあ……」
ジョークのつもりが割とガチ目に怒られた。
「さて、それはさておき仕事について説明しましょう。仕事の内容は殺人事件の調査です」
「へえ。殺人事件か。しかし、調査だと?」
「ええ。この事件はまだ未解決なのです」
未解決の殺人事件の調査? また随分と変わった仕事ですね。
「殺されたのは大井医療技研の研究者である南部正人。殺人の現場は自宅であるトーキョーヘイブン。そして事件が起きたのは2日前です」
「トーキョーヘイブン。巨大アーコロジーか。セキュリティは完璧だろう。そんな場所で殺人が起きて、今も未解決なのか?」
トーキョーヘイブンというのはTMCに数ある大井が研究者や技術者を抱え込むアーコロジーのひとつだ。
アーコロジーについて知らない人は全てが自給自足のちょっとした都市を思い浮かべてくれるといい。それがひとつの建物の中に収まっているのを加えて思い浮かべれば、それがほとんどアーコロジーの説明になる。
「そうなのです。本来、殺人やら強盗から研究者及び技術者を守るためのアーコロジーでこのような事件が起きるとは。忌々しい話ですが、続けましょう」
ジェーン・ドウが続ける。
「事件が起きた時間帯、どういうわけかトーキョーヘイブンの無人警備システムのうち、南部博士の暮らしていた部屋の監視機能が一時的に機能不全になったのです。そのため事件の記録はありません」
「外部からのハッキングか?」
「不明です。大井統合安全保障のサイバーセキュリティは今も調査をしています」
アーコロジーのような閉鎖空間で、かつ大井の代理人であるジェーン・ドウが仕事として調査を依頼するくらい重要人物の部屋で事件が起きれば、通常は無人警備システムが犯人をとっくに特定している。
最悪、現場で犯人が射殺されていることだってあるだろう。
「この事件で唯一の手掛かりは南部博士自身の証言だけです」
「え……? 南部博士って殺人の犠牲者、ですよね…………?」
ここでジェーン・ドウが告げた言葉に私は困惑。
「まさかマトリクスゴーストか?」
そこでリーパーがそう尋ねた。
「その通りです。南部博士は事件の1時間前にマトリクスゴーストの施術を受け、自分の記憶と人格を情報保全企業に保存していました。情報保全企業からは捜査に協力すると返答があります」
「あの、マトリクスゴーストって何ですか?」
私も知らない単語に思わずそう質問する。
「はあ。説明しましょう。マトリクスゴーストはマトリクス上に高度に保存された記憶と人格から再生される疑似人格のことです」
ジェーン・ドウは渋々と言うようにそう説明を始めた。
「我々はまだマトリクス上で完全に人間のあらゆる情報を保存する技術は有していませんが、かつてよりは高度な記憶と人格の保存は可能です。ですが、それでも疑似人格と私が言ったのは、その人格に完全な本人との一致がないからです」
「不老不死に繋がる技術だとか言われていたが、実際はお粗末なものだったはずだ」
「ええ。遺言の代わりに残す場合がほとんどで、マトリクスゴーストに本人と同等の権利を認めているのは今のところ南アフリカだけですね」
あれま。リーパーはこの技術について知っていたのか。
「でも、今回はその南部博士のマトリクスゴーストに証言してもらうしかない、と」
「そうなります。事件の記録というのは、それぐらいしかないのですから」
随分と妙な仕事です。
殺人事件の調査で、その事件の唯一の証人が被害者本人とは。
「仕事はいつから始めればいい?」
「これからすぐです。情報保全企業には既に連絡済みですから、セクター3/3にあるアンリミテッド・メモリー社に向かってください」
「で、犯人を見つけたら、どうする?」
「追って指示します。今は調査に専念してください」
「了解だ。行くぞ、ツムギ」
リーパーにそう言われて私は彼とともに席を立って、喫茶店を出た。
「リーパーはマトリクスゴーストを知ってましたけど、以前の仕事でかかわったことでもあるんですか?」
「ああ。やはり技術者のマトリクスゴーストが問題でな。その仕事ではマトリクスゴーストを消せって話だったが」
なるほど。技術の漏洩を防げとかそういう仕事だったのでしょう。
「そのときにマトリクスゴーストと少しばかり会話したが、正直あれにまともな証言を期待するのは無理なように思える。俺が仕事をやったときから技術が進歩していればいいんだがな……」
リーパーはそう言いながら車をセクター3/3に進めた。
「アンリミテッド・メモリー社。この会社は大井系列じゃないな……」
「でも、南部博士は大井医療技研の技術者なんですよね。この場合、大井の系列の情報保全企業に頼むものじゃないですか?」
「大井に人生の全てを捧げるほど献身的な社畜じゃなかったんだろうさ」
ARデバイスで調べてみたところ、アンリミテッド・メモリー社は南アフリカに本社を置くメガコーポであるインフィニティの系列企業でした。
かなり高度なマトリクスゴーストの作成に力を注いでいるとか。
私たちはアンリミテッド・メモリー社の駐車場に車を止め、エントランスに向かう。
アンリミテッド・メモリー社のエントランスには重武装の警備ボットとアンリミテッド・メモリー社が契約している民間軍事会社のコントラクターたちがいた。
「止まれ」
エントランスに近づいた私たちをそのコントラクターが制止する。
「IDを認証する」
警備ボットは容赦なく装備した自動小銃の銃口を私たちに向けており、コントラクターたちも見るからに警戒を示していた。
「認証した。マトリクスゴーストの尋問の件で来た人間だな。ビジターIDを発行したので内部ではこれを提示するように」
そしてコントラクターからビジターIDを受け取り、私とリーパーは社内に。
『────あなたの死後に残す人々のことが心配ではありませんか? 残されるものの悲しみに少しでも寄り添いたくはありませんか? それならば我が社にお任せください! 我が社の信頼と実績あるマトリクスゴーストの作成で────』
1階のフロアにはカウンターがあり、待合室のような椅子が並んでいる。そこに延々とマトリクスゴーストを宣伝するアナウンスが流れ続けていた。
リーパーはそんな1階フロアでカウンターに向かう。
「南部正人の件で派遣された人間だ。そっちの許可は得ていると聞いているが」
「お待ちください」
カウンターでは接客ボットが対応しており、通信を行っているのか暫し沈黙する。
「お待たせしました。7階で担当者がお待ちしております」
「ああ」
接客ボットから案内を受けて、私とリーパーはエレベーターで7階へ。
7階ではすぐにエレベーターの出口で接客ボットが私たちを出迎えて、担当者がいる部屋まで先導する。
「やあ。お待ちしておりました。この度、担当させていただくエンジニアのシモン・マエダです。どうぞよろしく」
「どうも」
私たちに綺麗でお洒落なオフィスでそう告げるのは、40代ほどの男性職員で、彼は私たちのARデバイスに名刺を送信してきた。
「南部正人様のマトリクスゴーストにお話があるとか」
「はい。彼が殺人の犠牲者なのはご存じですね?」
「存じております。まさかマトリクスゴーストを作成した1時間後に殺されるとは。いやはや本当に人生とは何があるか分からないものですね」
と、そこでシモンさんが営業スマイルを浮かべる。
「そんな人生でありますので、あなた様方も万が一に備えてマトリクスゴーストを作っておきませんか? TMCではまだマトリクスゴーストに人と等しい権利は認められていませんが、一部遺言の執行などにおいて権利が認められていますよ」
「いや……。いいです…………」
特に残るような財産も、家族もいないのですよ。
「残念です。気が変わったらいつでも申し込まれてください」
「それよりも南部のマトリクスゴーストと話しをさせてくれ。自分を殺した人間について心当たりがあるのかもしれない」
リーパーはしびれを切らしたようにそう言う。
「分かりました。こちらへどうぞ」
それから私たちは3Dホログラムシアターの設置された部屋に通された。
「マトリクスゴーストの読み込みを」
シモンさんがその部屋で待機していた作業用ボットに何かを命じると、ホログラムが表示され始めた。
ホログラムで表示されたのは30代後半ほどの外見をした、ツーブロックの髪をした男性だ。あまり大柄ではない体に黒いスーツを纏ったその男性は私たちの方を見て、それから喋り始めた。
『初めまして。私は南部正人。そのマトリクスゴーストだ』
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