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プロローグの墓場

薔薇園の野茨

作者: 調彩雨

※導入のみ存在する未完作品です

 父は、親馬鹿な男だった。

 そうとしか思えない。

 高々お針子に生ませた子供まで、愛して、愛し抜いて、可愛がってしまうのだから。

 けれどその愛が、子供の為になる事は無かった。

 度々父の訪いを受けていたわたしと母は、正妻に嫉妬され疎んじられて、街を追い出されてしまったから。

 父はわたし達の行方を知らない。

 国一裕福な街を、身一つで追放されて、針を持つ事しか出来ない子連れ女に行く当てなんて無かった。身寄りも、金も無い。結局の所、正妻はわたし達を殺したかったのだろう。自分の手は汚したくないから、野垂れ死ねと家を奪って。

 さまよい歩いてやっと辿り着いた居場所は、波止場の娼館。

 幸いにも、母は美しかった。

 十に満たない子供を養う為、母は自分に残った唯一の財産を、切り売りして日銭を稼いだ。


 ё  ё  ё  ё  ё  ё


「ロズ、早くおしよ!このグズ!!」

 母が死んで、半年が経った。

「はい。女将さん」

 重い荷を抱えて、わたしは返事する。

 生まれた街を追い出されて七年。十五になったわたしは、幸運にも下働きの地位を確立し、母無しでもどうにか生きられる様に育っていた。

 針しか持てない母と違い、日々力仕事に駆り出されるわたしの腕は、男の子みたいに太くなっていた。肉体労働で引き締まった身体に、余分な肉は無い。

「……あんたにもっと色気が有ったら、喜んで売り物にしてやるってもんだけどね」

 娼館の女将さんが、わたしの身体を眺めて溜め息を吐いた。

「いくら育ってもマリアにゃちっとも似て来ない。あんたマリアの腹に、大事なもん落っことして来たんじゃないのかい?」

「そうかもね」

 荷を下ろしながら肩を竦める。娼婦上がりの女将さんは、口は悪いが根は優しい。素性の知れぬわたし達母子を引き受け、母マリアの死後も、わたしみたいな使えないガキを、気に掛けて店に置いてくれている。

薔薇園(ロザリー)なんて、名前ばっかし華やかでもねぇ」

 娼館のお姐さんが、茶化す様に言う。

「好きでそんな名前なんじゃありませんよ。誰とも知れない親馬鹿な男が、勝手に名付けたんだ」

「まあ、色だけ見りゃあ薔薇園と言えなくも無いんじゃないかい」

 別のお姐さんが、わたしの頭から帽子を奪って笑った。

 毒林檎みたいに鮮やかな深紅のお下げが肩に落ちる。何やかや言ってわたしを娼婦にする事を諦めていない女将さんは、髪を切ることを許してくれない。

「からかうのは止して下さいよ。良いんだ、下働きのロズで満足してるんだから」

 帽子を取り返すと、髪を仕舞って目深に被った。

 左右で色の違う目を、つばの影に隠す。

 たぼだぼの煤けたスリーピースに、キャスケット帽。太い腕や高い身長も相まって、わたしが女だと気付くお客はいない。

 長い髪を見咎められて、女だとばれたりしたら堪ったもんじゃない。

「娼婦の方が儲かるってのに、物好きなガキだね」

 呆れた様に言いながらも、女将さんはわたしの頭を撫でてくれた。


 ё  ё  ё  ё  ё  ё


 娼館は昼間眠り、夜に目覚める。

 下働きであるわたしは、その逆だ。お姐さん達が起きる前に彼女らの支度を全部用意して、起きてきたお姐さんに食事を出す。請われれば支度を手伝うし、頼まれれば買い物に行く。そして、お客が来る頃になると店の奥で眠りに付く。お客が帰る頃に目を覚まし、お姐さん達に食事を出してから、乱れた部屋を片付け服を洗う。女将さんにお使いを頼まれる事も有るが、基本はその繰り返し。

 ここが眠る時間に活動しているから、娼館の外の人間と会うと言う事があまり無い。

 好都合だった。

 半年前、愚かな事をしてしまった。

 今思い返しても、ぞっとする。

 元より下働きとして、地味に暮らしていたわたしだが、それを期にますます日陰で暮らす様になった。

 何故、あんな事をしてしまったのか。

 問えば、簡単に答は出る。

 唯一の庇護者を無惨にも失ってしまったわたしは、あの時狂っていたのだ。

 十五にもなって、子供の様に。

 泣いて縋り付いた母の身体は、病に蝕まれ、見る影も無く痩せ細っていた。

 わたしが殺したのだ。

 ひやりと冷たい刃物を、下腹に差し込まれた心地がした。

 まだわたしが小さかった頃、母に何度も身請け話が持ち上がっていた事を、わたしは知っていた。それがいつも、わたしのせいで流れていた事も。知っていて、わたしは耳を塞いでいた。知らない振りをして、無邪気に母に甘えていた。

 母を失えば、幼いわたしに生きる術は無かったから。

 わたしなんて捨てて、裕福な家に身請けされれば、母がこんなにも早く、こんなにも惨めに死ぬ必要は無かったのに。

 わたし達から暖かい家を奪った父の正妻を、その原因を作った父を、わたしの代わりに恨もうとも思った。でも、出来なかった。

 父はわたしに優しかった。母を心から愛していた。そうして、わたしには恐ろしいだけの父の正妻だって、確かに父を愛していた。

 そんな父から、わたしが母を奪ったのだ。そして母は、正妻から父を奪っていたのだ。

 愛する人を失うのは辛い。こんなにも、辛い。

 同じ思いを抱く人を、どうして、恨めるだろうか。

 美しかった母は無惨に痩せ衰えていたが、髪だけは変わらず美しかった。

 わたしは母の髪を一房切り取り、手紙と共に父へと送った。

 まだ、変わらずいてくれるかはわからなかったが、昔父とわたし達を取り次いでくれていた人の所へ、女将さんの使いのついでで手紙を託した。

 多少の理性は残っていて、手紙を出したのは娼館の波止場から六つも離れた街からで、娼館の名前も出さなかったし、わたしの名ではなくマリアの名を使った。死んだ女から遺言を頼まれたと、嘘まで吐いた。

『変わらぬ愛を貴方に マリア』

 生まれた街を追い出されてから、頑なに連絡を取らなかった母からの最期の便りが、父に届いたかはわからない。

 二月後にまたその街に行く用事が出来て、向かった先で綺麗な服を着た男に声を掛けられてぞっとした。

 それは、母とわたしを捜す人だった。

 何故、と思った。簡単な事だ。手紙の来た道を、辿って来れば良い。

 愛するひとを捜した父の部下か、憎いひとを殺しに来た父の正妻の手下か。わたしには、判断が着かなかった。

 でも、兎に角わたしは、下働きのロズとして、平穏な人生を終えたかった。

 帽子に髪と瞳を隠し、わたしは知らぬ存ぜぬを通した。

 幸いにも、手紙を出した娼館の下働きについてまでは、記憶されていなかったらしい。普段使わない通りを選んだ甲斐が有った。

 どうにか男をやり過ごし、すずろに使いを済ませると、命からがら飛んで帰った。

 以来、日々を恐怖に苛まれながら生きている。

 いつ見付かるか、いつ捕まるかと、怯えながら。

 あれから、四カ月。

 わたしまだ、見付かっていない。


 ё  ё  ё  ё  ё  ё


 お姐さんに頼まれて煙草を買いに行く途中、道端で座り込んでいた男に気付き、首を傾げる。

 波止場街の方なら浮浪者や浮浪児を見掛ける事も有るが、娼婦街では珍しい。

 この街は、女にしか優しくないのだ。

 声を掛けようか迷って、通り過ぎる。どうせ帰りも通るのだ。迷うのは帰り道で見掛けた時でも遅くない。

 煙草の入った袋を抱えて再び通り掛かると、男は未だそこでうずくまっていた。

 微かに上下する背中で、死者ではないと確認する。

 頬を掻いて、溜め息を吐く。

 浮浪者なら、他人事ではない。娼館以外行く所の無いわたしにとって、娼館を追い出された先の未来はこれだ。明日は我が身と思えば、放っても置けない。

「あんた」

 少し離れた所から、声を掛けてみる。

「寝てるのかい?そんな所で寝ていたら邪魔だよ」

 反応が無いので仕方無しに近付いて、肩を叩く。

「あんただよ、あんた。ここは娼婦街だよ。こんな所にうずくまってても、仕事なんざ見付からない。明日を生きたきゃ波止場へ行きな。あそこなら、何か日銭が稼げるかも知れない。運良く親方に気に入られりゃあ、船乗りだって夢じゃない」

 男なら。女のわたしには夢物語だ。

 男は不意に顔を上げた。

 思いの外整った顔と、視線が交わる。

「その、目……!!」

 驚いた表情に思い出す。これは四カ月前、わたし達を捜していた男だ。

 下から見上げられたら、帽子は意味が無い。

 突然伸びて来た腕を、間一髪で交わす。

「うわっ、何だい!?金なんざろくに持ってない。物取りなら、余所でやっておくれ!!」

 まだ確信には至っていないはずだ。頼みの綱の帽子を押さえ、男から跳びすさって逃げる。娼館の下働きは意外に金を持っている事が多い。物取りに狙われて逃げるなんて、日常茶飯事だ。逃げ足には、自信が有る。

「人が心配して声掛けてやったってのに、飛んだ恩知らずだ。欲しいんならコイツをくれてやるよ、どっか行けっ!!」

 道端の石を投げ付けて時間を稼ぐと、一目散に逃げ出した。生憎と、ここの地理なら知り尽くしている。

 あっと言う間に、男はわたしを見失った。

 ぜえぜえと荒い息で駆け戻ったわたしを見て、煙草の帰還を心待ちにしていたお姐さん達が驚いた顔をする。

「どうしたんだい、一体?」

「まだ夕暮れには間が有る、そんなに急ぐ事、無かったのに」

 言いながらもすかさず買い物袋を取り上げる辺り、現金だ。

「帰り掛けに物取りに狙われたんだ。お使いの品はこうして死守したんだから、褒めて下さいよ」

 未だ整わない呼吸を持て余しながら答える。アイツは唯の物取り。自分でも、そう思いたかった。

「それはご苦労様」

 笑ったお姐さんが、ふと思い付いてわたしに小瓶を投げる。

「ほら、ご褒美だ」

 投げられたのは、ちっとも中身が減っていない、香水の小瓶だった。

「何だい、これ?」

 ちん、と瓶を弾いて問う。

「薔薇の香水だってさ。お客がくれたんだ。どうも高い品らしいんだが、香りがお上品過ぎてあたしは好まない」

 だからやるよ、ロザリーちゃん。

「香水なんて、どうしろって?」

 からかい口調のお姐さんに、顔をしかめて見せる。

「使えば良いじゃない。あんた一応女なんだし」

 別のお姐さんがわたしの手から瓶を取り、手首に吹き掛ける。

 仄かな薔薇の香りが、微かに漂った。

 成る程これは、お姐さん好みじゃない。お姐さん達は、お客の加齢臭や脂ぎった男臭さが紛れる、きっつい香水を好むんだから。

「……似合うじゃないか」

 拍子抜けした様子で、お姐さんが呟いた。

「えぇ?」

 匂いを薄めようと手首をこすり合わせていたわたしは、不機嫌に聞き返した。

 香水なんて女臭いもの、願い下げだ。

「お上品な香りが似合うよ、あんた。ロザリーって名前も、あながち不似合いじゃないじゃないか」

 お姐さんが、どこか満足そうな顔で笑う。

「はぁ?下働きに、どうしてお上品な香水が似合うって?空恐ろしい事言わないで下さいよ、頼みますから」

 微かに香る、周りのお姐さんの香水に掻き消される様な淡い香り。だと言うのに、不思議と存在感が有る。

 まるで母の様だと思った。美しく強い正妻よりも、父に愛された儚くも強いひと。

「案外あんた、お上品路線で行ったら売れるんじゃないかい?」

「ああそうですね。この控え目過ぎる胸もお上品と言えば聞こえが良いでしょうね。下働きを辞めるなんて、真っ平御免ですけどね」

 苛々と返したわたしに、お姐さんが困った顔をする。わたしが自分の胸をコルセットで押し潰している事を、このお姐さんは知っている。

「あんた別に、娼婦を嫌ってる訳じゃないのに、何で自分の話だとそこまで頑かねぇ」

「目立ちたくないんですよ。唯でさえ、こんな外見してるんだから」

 目の覚める様な深紅の髪に、右目は深い青、左目は薄い黄色。日に焼けてもおかしくない日々だと言うのに、肌は娼館の誰より白い。

 母は金髪碧眼で、美人だがありふれた外見だった。母の外見を継いでいれば、娼婦だって悪くなかったが。

 この外見で噂にでもなれば、間違い無く嗅ぎ付けられる。

 わたしの目をちらと見ただけで、男が気付いてしまった様に。

「ほら、食事の時間だ。良いのかい?急がないと食いっぱぐれるよ」

 わたしは手を振って、お姐さん達の追求を誤魔化した。


 ё  ё  ё  ё  ё  ё


 騒がしい声で目覚めたのは、翌朝早くだった。

 何やら店先で、言い争っている。

 お客と揉め事でも、起きたのだろうか。

 娼館には護衛の男が雇われているが、必要なら助太刀しなくてはならない。

 わたしは手早く身支度を済ませると、娼館の店先に向かった。

 店先では数人のお姐さん達が、男を囲んで姦しく騒いでいた。

「どうしたんです?」

 遠巻きに見守っていたお姐さんに声を掛けると、何故かぎょっとした顔をされた。

「ロズ!?あ、あんた良いから、奥に行ってなよ」

 嫌な予感にお姐さん達の奥に目をやる。

 しん、と肝が冷えた。

「ロザリーなんて知らないよ」

「この娼館に赤毛の女なんていないよ」

「お客を取る時間はとうに過ぎてるんだ。帰っとくれよ」

 わたしを庇おうとするお姐さん達の声が、遠く聞こえる。

 不意にこちらへ視線を向けた男と、目が合った。

 男がお姐さん達を掻き分けて、こちらへ向かって来る。

「早く行きな、ロズ」

 お姐さんが、わたしを守る様に前に立ち、店の奥へと押しやってくれる。

 慌てて逃げるわたしに男が手を伸ばし、お姐さんがそれを阻もうと身体を張る。

 わたしはまた、誰かを犠牲にするの?

 すくみかけたわたしを救ったのは、女将さんの腕だった。

 ぐいとわたしを背後に引っ張り、男の前に立ちはだかる。

「何の用だい?」

 酸いも甘いも味わい尽くした、娼婦全員のお母さんが、堂々とした出で立ちで男を睨み付けた。

「この子は娼婦じゃない。下働きのガキだよ。生憎と、うちじゃ女しか売ってない。ガキが抱きたきゃ余所行きな!!」

 流石の迫力に、男がたじろいだ。

「抱く相手を、捜してるんじゃない」

 それでも、負けじと食い下がる。

「主に命じられて、人を捜しているんだ。この娼館に、マリアと言う娼婦はいなかったか。金髪碧眼の、美しい女だ」

「……マリアなら死んだよ。半年も前の話だ」

 言ったのは、わたしだった。

 女将さんの前に出て、帽子を取る。

 鮮やかな赤いお下げが、はらりと広がった。

「あんたが捜してるのは、マリアじゃなくわたしだろう?」

「ロズ、良いのかい?」

 女将さんが問う。薄々気付いていたのだろう。頑に髪を隠すわたしが、何かから逃げたがっている事に。

「良いんだ。もう、良いよ」

 黙ってはいられなかった。男の腰に提げられたのが、近衛騎士の剣だとわかってしまったから。相手は地位の有る人間だ。逆らえば、唯ではいられない。

「あんたの言うことを聞くよ。大人しく。だから、」

「勿論、ここを害する事は有りません」

 わたしの言いたいことを察したのだろう。男が先んじて言った。

「主はこの娼館を、この先十年支援するおつもりです。望みであれば、他の商売や仕事を斡旋する事もやぶさかではないと」

「え……?」

 わたしの口から唖然とした声が漏れた。女将さんも、意表を突かれた顔をしている。

「どうして……」

「当然です。ここはマリア陛下と殿下を、保護して下さった場所なのですから」

「マリア……陛下?」

「殿下……?」

 今何か、不穏な単語が聞こえなかったか。

 おもむろに、男が跪く。

「突然御前にまかり出たご無礼をお許し下さい。わたくし、近衛騎士リヒャルト・フォン・モールドは、国王陛下の命により、ロザリー王太子殿下のお身柄を、お預け頂く為に参りました」

 ふらりと目眩を起こしたわたしを、後ろにいた女将さんが支えた。

 けれど、その女将さんも、当惑した表情で。

「あんた、一体何を言っているんだい?」

 女将さんの一言が、皆の気持ちを代弁していた。


 ё  ё  ё  ё  ё  ё


 ひとまず落ち着こうと、わたしと女将さん、そうして自称近衛騎士リヒャルトは、応接室に腰を落ち着けた。お姐さん達も気にした様子だったが、夜の仕事に向けた休養を命じられて、渋々引き下がった。

 リヒャルトの前にお茶とお菓子を置き、自分達は軽食を口にする。わたし達だって、食事はまだだったのだ。

 わたしの給仕を受けて、リヒャルトは困った様な顔をした。

「で?」

 女将さんが口火を切る。自称とは言え近衛騎士を前にして、媚びを売らない気概は、流石女将さんだ。

「このロズが、王太子だって?」

「はい」

 男が静かに語り出した。

 十ヶ月程前、王都で流行病が蔓延したこと。その流行病で、王子達が死んでしまったこと。同じ病で、王妃様が子おを産めない身体になったこと。王には他に妃や子供がおらず、跡継ぎがいなくなってしまったこと。

「傍系の人間が王位を得ようと勇み立ち、このままでは内乱に発展しかねません」

 王や側近達が頭を抱えていた所で、届いた手紙がわたしの送ったものだった。

 愛するマリアと愛娘ロザリーが生きているかも知れないと、国王は考え、リヒャルトに命じて秘密裏に捜させた。手紙の行方を追っている途中で、マリアが死んだことが発覚したが、娘は生きているかも知れないと捜索は続き、遂にここへ辿り着いた。

「まさか男の子格好で、下働きをなさっているとは思わず、見付けるのが遅くなってしまいました」

 そんな馬鹿な。

「父さんが……国王陛下?」

 わたしは呆然と呟いた。

 お腹は空いていたけれど、食事の手は完全に止まっている。

「そんな、馬鹿な……」

「事実です」

「勘違いだよ。だって、母さんは唯のお針子だ。そんな女が、何で国王なんかに……」

 いくら美人だからって、それは無いだろう。

「お母君の生家を、ご存知無い?」

「え?」

「二十年程前に取り潰しを受けた、公爵家ですよ。取り潰しさえ受けていなければ、公爵令嬢だったのです、殿下のお母君は。陛下に見初められても、何ら不思議は有りません」

「……成程通りでどこか浮き世離れしてるはずだよ」

 女将さんが呆れ顔で呟く。

「取り潰した家の娘を愛しちまって、囲ってたって訳かい。うちの国王は」

「元々、婚約者だったのです。それを前王が、些細な言い争いからお家取り潰しに」

 リヒャルトは渋い顔だ。

「挙げ句後釜に着いた王妃様に家を追われて、気付いた陛下が捜索を命じた時には既に完全に消息不明に……」

「七年経って、ようやく現れた手懸かり追って、やっとこさロズを見付け出したって訳か」

 女将さんが溜息を吐いてわたしを見た。

「で、このロズを王太子にするって?都合の良い話だねぇ。自分等で追い出しといて」

「追い出したのは、」

「同じ事だよ」

 女将さんはぴしゃりと言い放ってリヒャルトを睨んだ。

「ロズもマリアも、見付かるまいといつもびくびくしていた。可哀想にこの子達が、そんな暮らしをしなくちゃいけなくなったのは、誰のせいだい?娼婦暮らし舐めんじゃないよ。貴族のお嬢さんが、生半可な気持ちで続けられるもんじゃない。そんなもんに身をやつしても、マリアはあんたらにロズを渡したくなかったんだ。愛娘一人守れない、へたれ男なんかにはね」

 女将さんの腕がわたしを抱いた。

「年頃の娘が恋も夢見ず、目立たない様に目立たない様に生きて。そんな歪んだ子を生み出したのは、一体誰だい?ロズは好き好んで男の振りをしてたんじゃない。そうしなけりゃ、あんたらに見付かるから、女の格好が出来なかったんだ」

 わかっていたんだ。

 抱き締める温かい腕に、涙が浮かんだ。

「女将さん……」

「好きにおし、ロズ。ここは街一番の娼館だよ。あんた一人養う位、訳無いさ」

 涙ぐむわたしに、女将さんは気前良く笑って見せた。

 でも、駄目だ。

「出て、行きます」

 女将さんの肩をそっと押して、腕を抜け出す。

「母さんは、わたしのせいで死んだんだ」

「そんな事は、」

「女将さん」

 否定してくれようとした女将さんの言葉を、遮る。

「母さんは自分の命を引き替えにしても良い位、わたしを愛してくれていた。わたしにも、それ位わかります。幸せだった。凄く。この半年も、母さんが死んで悲しかったし、寂しかったけど、辛くはなかった。女将さんも、お姐さん達も、優しくしてくれて」

 だから、と泣き笑いを浮かべる。

「貰ってばっかりだったから、返したいんです。正直、こんなどこの馬の骨ともわからないガキを王太子とか言っちゃう騎士さんとか、馬鹿だなって思うけど、でも、その剣は本物だ」

 母と針子として、貴族の家に出向いた事も合ったから、知っていた。

 数々の紋章や、階級章が、意味するものを。

「母さんの形見のこれに、どうして公爵を意味する赤い薔薇が描かれているのか、ずっと不思議だった。でも、この人の話を信じれば、納得が行くんです」

 首からロザリオを取り出して見詰める。十字架の上の飾り板には、赤薔薇と青い兎が描かれていた。

「マリア陛下のご生家、バールベルド公爵家の紋章です。恐らく、マリア陛下のご生誕時に造られた物でしょう」

 リヒャルトがわたしの手元を見て言った。

「わたしは自分が王太子だなんて信じないけど、この人がそれを信じてるなら、わたしは女将さん達に恩返しが出来るかも知れない。なら、行きます」

 きっぱりと言ったわたしに、女将さんは少し言葉を失って、

「あんたもマリアも、仕方無い子だよ」

 ちょっと乱暴に、頭を撫でてくれた。


 ё  ё  ё  ё  ё  ё


 わたしの出発は、次の日の朝になった。

 上等なドレスとリボン、高価な宝飾品で飾られて、お姐さん達の手で渾身の化粧をされて、わたしはまるで高級娼婦にでもなったみたいな気分だった。

「……似合うじゃないか」

 半泣きのお姐さんがそう言って笑った。

「仕上げだよ」

 呟いて、あの香水を手首に吹き掛ける。

「ほら、上等なお嬢さんの完成だ」

「幸せにおなりよ」

「辛くなったら、いつでも帰っといで」

 口々に別れの言葉を言って、抱き締めてくれる。

「ありがとう」

 涙をこらえて、微笑んだ。

「やっぱりあんた、色気が無いねぇ」

 女将さんが呆れた調子で言う。

「顔は良いのに、どうしてこうも色気無く育っちまったかね」

 上等のドレスを着ても、背の高さや腕の太さは変わらないのだから仕方無いだろう。

「女将さんを見て育ったからかな」

 軽口を叩いたわたしを小突いてから、女将さんはぎゅっとわたしを抱き締めた。

「あんたの選んだ道は、娼婦として生きるよりも辛い道だよ。良いかい、あんたは強い子だ。貴族の娘っ子なんか逆立ちしても叶わない位、強い子なんだ。それを、忘れんじゃないよ」

 女将さんはわたしの背中をぱんと思い切り叩いた。

「泣いて帰って来たら承知しないからね。幸せにさせるんだよ。男を巧く使いな」

「はい。今まで、ありがとうございました」

 深く頭を下げて、へへ、と笑った。

「痛いよ、女将さん。涙が出ちゃった」

「なんだい十五にもなって泣き虫だねぇ。ほら、涙拭いて、行きな」

 女将さんが手巾を渡して、わたしを店の外に押しやる。

 外に出て見上げた空は、不安になる程、広く晴れ渡っていた。

 視線を前に向ければ、リヒャルトが居る。

 馬車にもたれて空を見上げていたリヒャルトが、これ方に顔を向けてぽかんと刮目した。

「何、見惚れてるんだい」

 女将さんが肩を竦めた。

「……いえ」

 リヒャルトが身を正して、わたしに手を差し出す。

「お手を取らせて頂いても?殿下」

 昨日から、気になっていたのだけれど。

「その、殿下って、辞めてくれない?」

 キモチガワルイ。

「……しかし、」

「辞めないと口聞かないから。ロズで良いよ」

「……ロザリー様」

「ロズ」

「……それは流石に」

 わたしは、リヒャルトを素通りして勝手に馬車に飛び乗った。御者が唖然としてわたしを見る。

「ロザリー様、」

 呼びながら乗り込んで来ようとしたリヒャルトに胡乱な視線を投げる。

「蹴落とすよ。お姐さん自慢のピンヒールだからね。痛いと思うよ」

「……わかりました、ロズ様」

「様と敬語」

 片足を上げて構える。

「……わかったよ、ロズ」

 これで良いか?と目が問うていた。鷹揚に頷く。

 走り出した馬車の窓を開けて、大きく手を振る。

 見えなくなるまで振って、大人しく窓を閉めて手巾に顔をうずめたわたしに、前の席に座ったリヒャルトは何も言わなかった。

「これからどこに向かうんだい?」

 暫くして、わたしから話し掛ける。

「取り敢えずは、俺の家に。ロズの身形やら何やら、調えないとね」

「一張羅だもんね」

 わたしは肩を竦めた。着ているものと母の形見のロザリオを除けば、わたしの荷物は裁縫道具と薔薇の香水、女将さんがくれた手巾だけだ。

 まあ、お姐さんが面白半分で胸元に忍ばせた、扇子なんかも持っているけど。

 後は皆、置いて来てしまった。

 次に来る、下働きの少年や、新入りの娼婦が使うだろう。

「これだって、貴族から見たら、はした無くて仕方が無いんだろう?」

 自分の服装を見下ろして問う。

 コルセットでぎちぎちに締めた、バッスルスタイルのドレス。生地こそ最高級のベルベットだが、色は派手な山吹色で、胸元も背中も、ぱっくりと開いている。裾が長いのがせめてもの救いだが、全体を彩る黒いレースが、如何にも娼婦らしい淫らさを醸し出している。

「いえ……良くお似合いですよ」

 一瞬まじまじとみてから、顔を逸らしたリヒャルトが不明瞭に呟いた。

「お世辞は要らないって。それと、敬語」

「お世辞じゃ有りませ……お世辞じゃない。ただ、ちょっと挑発的過ぎるかなとは、思うけど」

「挑発的?」

 はて。

 首を傾げるわたしに、リヒャルトが首に巻いていた白いスカーフを投げて寄越した。

「胸元を隠して。……目の遣り場に困るから」

 確かにこの服は、驚く程胸を隠していない。

「ああごめん。見苦しかったでしょう」

「見苦しくないから困るんだ……」

「ん?何?」

 リヒャルトの言葉を聞き逃して、聞き返す。

「何でも無い。それより、一つ、許して欲しいんだけど」

「何を?」

「敬語と呼び方。二人きりなら兎も角、公の場では、」

「ああうん。良いよ」

「体面と……え?」

 皆まで聞かずに頷いたわたしに、リヒャルトがきょとんとした顔で聞き返す。

「真偽の程が定かで無い以上、わたくし相手に貴方が相応の扱いをしていなければ、余計な誤解を生みかねない、と言うことでしょう?勿論、わかっているわ」

 取り出した扇子で口元を隠して笑う。出来るだけ、表情筋を使わない様に。

「……ロズ?」

「娼婦舐めんなって話かな」

 唖然としたリヒャルトを笑って口調を戻す。

「意外に多才なんだよ、娼婦って。特に母は、令嬢風で売ってたからね。まあ、本当に令嬢だった訳だけど」

 扇子を広げてぱたぱたと扇ぐ。

「多分、そこらの街娘拾って来るよりは、仕込み易いんじゃないかな?最も調えなきゃいけないのは、そこでしょう?安心してよ、裁縫と礼儀作法と言葉遣いは、母仕込みだからさ」

 何も常に男の振りをしていた訳じゃない。

「娼婦なり、針子なり、今となってはもしかしたら、貴族としてでもかも知れないね。母はわたしがどうにかして生きられる様に、育ててくれていたんだ。現にこんなドレスでも、そこまで無様な動きじゃないはずだけど?」

「……確かに。そのヒールでよろけないのは凄いね」

 片足を上げて足元を見せたわたしに、顔を引きつらせてリヒャルトが頷く。

「でも、脚は見せなくて良いから。しまって」

「令嬢らしくないから?」

「令嬢でなくても年頃の女性がみだりに脚を出してはいけません」

 そう言うものだろうか。お姐さん達の最近の流行りは、膝上まで見える裾の短いドレスだったけれど。

「ふうん。でも、走る時はどうするんだい?裾が邪魔じゃないか」

「ロズ、令嬢は走らないよ」

「街娘は走るよ」

 農家のお姉さんとかは、スカートを捲り上げて野良仕事をしていたりする。

「でも、君はこれから令嬢だからね。街娘じゃない」

 リヒャルトが困った様に言う。

「それに君があんまりそう身体を見せていると、俺が困るから」

「リヒャルトが?」

 なにげ無く呼んだのに、リヒャルトはびっくりした様な目で見返して来た。

「あ、名前で呼んだらダメだった?じゃあ、えっと、モールド卿?」

「いや、リヒャルトで良いよ。うん」

 頬を掻いて、照れた様に言われた。

「あ、ただし、他の男性はいきなり名前で呼んだら駄目だからね。ファミリーネームに階級。わかった?」

「はーい。あ、ちょっと待って」

 ふと気になって、リヒャルトの襟元に手を伸ばす。スカーフで気付かなかったけれど、良く見ると、

「釦取れそうじゃないか。直してあげるよ」

 シャツの襟元の釦が取れそうだった。

「え、いや」

「大丈夫。直ぐ済むし」

「でも、ここで脱ぐのは、」

「脱がなくても縫えるから。心配しなくても、針で刺したりしないって」

 数少ない荷物の中から裁縫道具を取り出して、リヒャルトのシャツの釦を開ける。

「うーん、悪いんだけど、もう少し近付いてくれる?」

 馬車の床にリヒャルトを座らせて、シャツの襟を持つ。丁度わたしの脚の間に、リヒャルトを挟んでいる状態だ。

「糸切るから、動かないでよ」

 取れかけていた釦を一度外し、付け直す。作業自体は、三分も掛からない。

「はい、お終い」

 抜い終えて手を放すと、リヒャルトは飛び退く様に距離を取った。顔が赤い。

「どうかした?もしかして、針、当たってた?」

「針は当たってないから大丈夫。取り敢えず、スカーフを、ちゃんと巻き直して」

 慌てた様子で襟元を直しながら言う。目線は完全に明後日を向いていた。

 見れば、屈んだせいで、スカーフがずり落ちてしまっている。

「ああ、ごめん。顔の前に見苦しいものを……」

「見苦しくないから!!」

 リヒャルトが堪えかねた様に吐き出した。

「ロズ、頼むから、他の男にはこんな真似しないでくれよ。良いかい?君は凄く魅力的なんだ。そんな格好で、そんな風に無防備にしていたら、たちまち悪い男に手込めにされてしまうよ」

「魅力的?まさか。今までお客の誰一人だって、わたしが女だなんて気付かなかったって言うのに?女将さんにだって、散々色気が無いって言われてるんだよ?」

「娼婦基準で色気が無くたって、貴族の取り澄ました令嬢しか知らない男相手なら、十分挑発的なんだよ」

 リヒャルトの手がスカーフを剥いだ。

「柔らかそうな胸をこんなに出して」

 片腕でわたしを引き寄せる。

「美しい顔をこんなに近付けられたら、男なんて皆イチコロだよ」

 リヒャルトの顔が更に近付いて、その唇がわたしのそれに触れた。啄む様な軽い口づけ。

「ほら、こうして君を自分のものにしたいって思ってしまう」

 リヒャルトは直ぐに離れてわたしの胸をスカーフで隠した。今度はずり落ちないように、ピンでしっかりと留めて。

「良いかい、俺を含め、男は皆、女を狙う狼なんだよ。特に君は魅力的で、しかもこれから、貴族なら誰もが欲しがる地位を得るんだ。こうして不本意に身体を奪われたくなかったら、自分で自分を守らなくちゃなんだ」

「王太子のわたしを落とせば、玉座が手に入る、と言うこと?」

「そうだよ。しかも、飛び切りの美女付きでね」

 リヒャルトは信頼出来る。と思った。騙そうとするなら、こんな風に危機感は抱かせない、と思う。これも、彼の作戦でなければ。

 少なくとも、演技でなければ彼はわたしに欲情している。

 わかったよ女将さん。巧く男を使ってやろうじゃないか。

「……でも、リヒャルトが守ってくれるんだろう?」

 無邪気に見える様に微笑んで、言った。

「教えてくれて、ありがとう。気を付ける。でも、リヒャルトの前でだけは、気を抜いたって、安全だろう?」

 親鳥を見る雛は、きっとこんな目をしているはずだ。

 手を伸ばして、リヒャルトの髪に指を差し込む。

「だって、もっと酷いことも出来たはずなのに、挨拶みたいなキスで済ませてくれるんだから。ねぇ、リヒャルトだけは、信じても、良いんだろう?」

 そうだと言ってよ。

 懇願する色を滲ませて呟く。

「薔薇の香りが……」

 リヒャルトが困惑顔で呻いた。

「え?」

「ロズ、何か香水でも着けている?さっきから君が近付く度に、薔薇の香りがするんだけど。そのせいで、余計変な気持ちになるんだ」

 そう言えば、薔薇の香りには媚薬効果が有るはずだ。

「お姐さんがくれた薔薇の香水を着けているんだ。そんなに酷い匂いではないと思うんだけど、窓開ける?」

「いや、大丈夫。臭くはないよ。その香りが君に似合いすぎて、抑えが効かなくなりそうなだけで。あんまり、使わない方が良いかな、多分」

 香水を吹き掛けられた手首を見る。

 うーん。

「お姐さんにも言われたんだけどさ、香水に似合う似合わないって、今一つ良くわからないんだよね。単に、名前の印象ってだけじゃないかい?」

「ああ、薔薇園(ロザリー)?」

「そっちは似合わないって、事有る毎に言われているけどね」

「そうなの?」

 大仰に、手を広げて見せた。

「下働きのロズに、薔薇園なんてちゃんちゃら可笑しいじゃないか。良く見てよ、腕なんかこんなに太いんだよ?」

 筋張って硬い筋肉を見せる。胸は兎も角、他の場所には贅肉なんてちっとも無い。

「まあ確かに腕っ節は強そうだけど」

 リヒャルトが頬を掻く。

「赤薔薇の髪に、白薔薇の肌、青薔薇と黄薔薇の瞳、妖艶な美貌の、棘持つ女性。ロザリーって名前は、ぴったりじゃないかな」

「殺し文句だね。わたしの奇抜な外見が、まるでお姫様みたいになった」

 茶化したわたしに反して、リヒャルトの顔は真剣だった。

「これからきっと、沢山の人が君を褒めるよ。妬んで貶す人も、現れるだろう。そのどれが真実で、どれが嘘か、君は見分けなくちゃいけない」

 リヒャルトがそっと、わたしの髪に触れた。

「でもね、俺の薔薇姫。どうか俺の言葉だけは、疑わないで欲しい。君は美しいよ。想像以上だった」

「想像?」

 リヒャルトが苦笑を浮かべた。

「国王陛下……君の父君は子煩悩でね。最愛の人との一人娘である君を、いたく溺愛していたんだ。君が行方不明になってからも、事有る毎に君の事を語って聞かせて」

 惚気話ほど、聞かれてうんざりするものは無い。

 わたし達母子に対する父の愛情深さを知っていたわたしは、その時遠い目をしたリヒャルトに心から同情した。

「俺が君を捜す役目を仰せつかった時も、懇々と君の魅力について聞かされてね。陛下は万言尽くして君の魅力は語れないと悔やんでいらっしゃったな。まあ、正直身内贔屓だろうと、話半分に聞いていたんだけれどね」

 遠い目から戻って来たリヒャルトの視線がわたしを捉えた。

「中々見付からない君に諦めかけてうずくまっていた俺に、口は悪いが声を掛けてくれたその子の目を見た時、陛下がどれだけ言葉足らずだったのかを理解したよ。確かに、幾ら言葉を重ねても、本物の君の魅力には遠く及ばなかった」

 くす、と笑ったリヒャルトが、髪に触れていた手を頬にずらした。

「ロズ、君の母君は、とんでも無い大怪盗だね」

「えぇ?」

 リヒャルトの言葉の意味がわからず、わたしは眉を寄せる。

 余裕の笑みで、リヒャルトが言い放った。

「夜空から、一等美しい星を二つも盗んで、君の瞳にしてしまったんだからね。それにこの髪と唇はきっと、妖精から盗んだ薔薇の花束だろう?甘い匂いがして、口づけを誘っている」

 歯が浮く、と言う状況を、人生で初めて体験した。

 余りの美辞麗句に、言葉を失う。

 そんなわたしにお構い無しで、リヒャルトがわたしの髪を掬って毛先に口づけた。

「愛しい、俺の薔薇姫。俺は君の母君程の大怪盗にはなれないけれど、君の心を盗んでも良いかな?」

 ……試されているのだ、と、思う事にした。

 これをまともに受け取っていたら、気が狂ってしまう。

「嫌だなリヒャルト。わたしの心を盗もうなんて無謀だよ」

 髪に触れていたリヒャルトの手を取って、にっこりと微笑む。

「だってわたしはもう、貴方の心を盗んでしまったもの。ね、そうでしょう?」

「その通りだね、俺の薔薇姫。俺の心は、君に盗まれてしまった」

「人生は早い者勝ちなんだよ。わたしが先に盗んでしまったから、わたしの勝ちだよ。もう、わたしには勝てない」

 さり気なく、リヒャルトの手を彼の膝に帰す。

 腕力としては男性に及ばない身で下働きの地位を確立させたわたしの世渡りの上手さを、馬鹿にしないで欲しい。

「だから、ね。貴方はわたしに恋い焦がれるしか無いんだ。永遠に手に入らない心を、一生欲し続けるしか無い」

 遠回しだが、お前のものにはならないと言う拒絶だ。

 婉曲表現で誤魔化したい時は、笑顔と雰囲気で押し流すのがポイント。

 お目当てが先に取られていたお客さんに体良く他の娼婦を買わせる時に便利。

 口車で煙に巻いて、元々そっちの娼婦を買いたかったと錯覚させたら勝ちだ。

「……口が上手いね、ロズ」

「伊達に娼館の下働きやってないよ。これでも下働きとしては一番稼いでたんだ」

 下働きの稼ぎは仕事に対するお駄賃と、娼婦のお姐さんからのお小遣い、お客さんからのチップだ。お駄賃以外は良い仕事をしないと貰えない。

「力じゃ男に敵わないけど、口喧嘩なら護衛にだって一目置かれてたんだよ」

 怒ったお客の怒りを鎮める技術はピカ一だ。

 人を観察する能力も。

 リヒャルトは、信じて良いのかと問うたわたしの問いに、答えなかった。

 守ってはくれるだろう。しかし、信じてはいけない。

未完のお話をお読み頂きありがとうございます


娼館育ちのお姫様が腐った国政を叩き切る爽快な物語が

始まれませんでした

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